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評者◆睡蓮みどり
目が離せない俳優ふたり――ルカ・グァダニーノ監督『君の名前で僕を呼んで』、レオノール・セライユ監督・脚本『若い女』
No.3349 ・ 2018年04月28日




■その名前を知らない人がいないのではないかと思われる日本を代表する写真家、アラーキーこと荒木経惟さんのモデルを務めたKaoRiさんが「その知識、本当に正しいですか?」というタイトルで、自身のブログで彼との本当の関係性を告発したことが話題となった。彼女の言葉は、最近読んだあらゆる文章の中で、一番胸に響いた。ネット上では圧倒的に彼女への共感の方が多いようだし、私もその一人だが、彼女の言葉の裏側(あるいは表側)でアラーキーの写真が成り立っているという現実を突きつけられたときに、これまでの彼の写真への見方は、どうあがいても変わってしまう。写真の価値が下がるとかそういう単純なことではなく、少なくとも、作品とともにKaoRiさんの言葉を思い浮かべ続けるだろう、ということだ。
 自身もこれまでいろんな写真家に撮影されたことがあるけれど(荒木さんもそのひとりだ)、完全に納得したうえで撮られるという機会はそう多くはない。写真に関してモデルが口出しをすると面倒くさがられる、度胸がないとみなされる、他の人に迷惑がかかる、等々いくらでもこじつけて意見や感情を封じてしまう。対等でいるというのは本当に難しい。それは写真家個人の人間性の批判ではなく、そういった風潮が芸術、芸能界に(ということは他の業種でも似たようなことが多々あるのだろう)出来上がってしまっているという、悲しさを超えて、どうでもいい現実が根付いていることが大きな問題のように感じる。別に作家に品行方正なんて求めるつもりもないし、写真家とモデルに限らず、なんらかの共犯関係を結び、非常にプライヴェートな部分と密接にある仕事は特に、終焉のリスクも含めて、どんな関係であってもそれ自体は悪いことだなんて少しも思わない。あくまでそれが成り立つのであれば、だが。むしろ幸福な関係と呼べるのではないだろうか。
 目の前にいる一番近い他者の言葉の真意や感受性さえもわからないような、およそ共犯関係と呼べない関係性に甘んじて捏造することにも、知名度だけですごいと思ってしまう見る側の無知さにも、彼女の人生がちょっとずつ削がれていくような痛みの声がこれまで届かなかった環境にも、あらゆることが腹立たしい。彼女の言葉は、冷え切った部屋にたった一人ぼっちでいて、声を振り絞るように発せられたように感じられた。失望感。消費されきった彼女の、少しの愛着や愛ゆえの恨み言なんて微塵も感じられなかった。
偶然に先日観た『若い女』(原題Jeune Femme)は、まさに写真家のミューズとして20代を過ごしたポーラの物語である。2013年に映画学校の卒業制作のために作られた脚本を映画化したレオノール・セライユは、昨年のカンヌ国際映画祭で新人監督賞を受賞した期待の若手監督である。タイトルのシンプルさというか、古典的な雰囲気でしかもフランス映画というので、さぞシネフィル監督が撮ったアンニュイな作品かと思いきや、冒頭のヒロインの感情むき出しの叫びにいきなりパンチを食らわされる。彼女がまくしたてる罵倒の言葉は、自分を捨てた年の離れた写真家に向けられたもので、31歳になる彼女が10年付き合っていたというのだから、20代の全てをその写真家に捧げたということになる。彼女の過激なる悲哀ぶりは、おかしみのうちにも他人事とは思えない切実さに満ち溢れていて、ちょうどヒロインと同年代の自身にとっては深々と身にしみた。恋人にあっさり捨てられ、盗んだ元恋人の飼い猫とともにパリを転々としながら生きる彼女は、周囲の人々にとっては厄介で、非常に面倒な存在である。友達からも見放され、墓地に猫を置き去りにし、動物病院では治療費を払えず、母親からは拒絶、たまたま地下鉄で声をかけてきたレズビアンの女性が自分をかつてのクラスメイトだと誤解しているのをいいことに部屋に転がり込み、住み込みのベビーシッターの仕事では信頼を失う(子供からの支持は得られたけれど)。
 若い女、とだけいうと、これまでは10代だとか、せいぜい20代前半を指していたかもしれない。若さゆえに無知で、本能のままに生きているようで、実際は周囲の大人たちに翻弄されていた時期。それがまさに写真家とともにあった20代の全てだとしたら、今作はその後の物語である。と同時に、ポーラが自分の足で生きていく彼女自身の始まりの物語でもある。身勝手な男によりを戻そうと言われたときの、彼女の対応は見ていて爽快で、ついつい拳を握ってしまった。音楽のセンスの良さもさることながら、主演のレティシア・ドッシュ(今作で多数、女優賞受賞)の破壊力ある演技には目が冴え渡る。若い日のユペールを彷彿とさせる。この監督、俳優ともにこれからも追いかけてみたいと思わせるエネルギッシュな作品である。
また、目が離せない俳優として、『君の名前で僕を呼んで』の主演エリオを演じたティモシー・シャラメを外せない。類い稀な瞳をした美少年である。グザヴィエ・ドランがこの映画のインタビュー(対談)を雑誌でしたときに、「君のことをずっと知っている気がした」というこの上なくロマンチックな口説き文句を言ったそうで、こちらまでとてもうっとりした気持ちになった。この言葉はそうそう覚悟しないと言えない言葉だ。多少のサービス精神が含まれているにしても、ドランが彼を放っておくわけがないという方がよっぽど自然だし、本心なのだろう。というわけで、ドランがいつかティモシー・シャラメを主演に新作を撮ることを今から期待している。さて、この『君の名前で僕を呼んで』は『胸騒ぎのシチリア』(2015)が記憶に新しいルカ・グァダニーノが監督、あの『モーリス』(1987)の監督ジェームズ・アイヴォリーが脚色・プロデューサーを務めている。その組み合わせだけでもそわそわしてしまう。
 元々の期待値がとても高かったのだが、それをあっさりと上回ってしまった、というのが率直な感想だ。17歳の少年エリオと、24歳の大学院生オリヴァー(アーミー・ハマー)との一夏の恋。ラヴェルのUne barque sur l’ocean from Miroirsが非常に印象的に作品のなかで散りばめられて、惹かれ合う二人の距離感が近づいては離れてゆくもどかしさを実にみずみずしく印象付けていた。プラトニックと肉体的な欲求の見事なまでのバランスは、胸をえぐるような痛みを与え、恍惚の渦に巻き込んでいく。オリヴァーを思ってエリオが手にするあの桃(詳細はぜひ劇場で)など、美しい北イタリアの夏に怪しげなインパクトを与え、甘美な香りに包まれる。
 また、この映画について語るとき、ラストシーンについて触れないわけにはいかないだろう。ここ近年で思いつく印象的な長回しのカットとしては、ツァイ・ミンリャンの『郊遊』で主演女優が晒されるあの姿は緊張感とともに、実に自身のサディスティックな面を刺激してきたのだったが、今回のシャラメが晒されたあのラストシーンは、全く別の意味合いで、静寂(とはいえ、もう主題歌が流れているのだが)のうちに暴力的なまでに彼を視姦していることに気づかされてしまうのだった。多々ある映画の紋切型な宣伝文句にケチをつけるつもりは全くないのだが、この映画こそこれまで使い古された言葉であえて言うならば、「驚愕のラストシーン」と言えるのではないだろうか。
(女優・文筆家)







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