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評者◆睡蓮みどり
コミュニケーション不全の恋人たち――イルディコー・エニェディ監督・脚本『心と体と』
No.3346 ・ 2018年04月07日




■ついに、新しいiPhoneになった。そうしたかったわけではない。どこかで落としてしまったらしく、思い当たるところを探しても一向に出てこないので、泣く泣く新しいのに替えただけだ。新しいiPhoneを起動した瞬間、おびただしい数のメッセージが入ってきて驚いた。失くす前日に、数年ぶりにばったり顔見知りに会った。そのあとすぐにメッセージがきていたので、最低限の簡単な返事をしたばかりだった。その直後にiPhoneを失くしたわけだが、新しいものに替えるちょっとの間に、ものすごい数のメッセージがきていて、大変なことになっていた。そもそも何の約束もしていないし、これまでも会ったら挨拶する程度で、飲みにいったことさえない。それがなぜか返事をしないうちに、一緒に出かけて食事をする約束をしたかのように勝手にことが進行している。見てもいないので返事のしようがないわけだが、こちらが返事をしないことに怒ったり、悲しんだりと、とにかく忙しそうなのだ。そのような人はまあいるし、話の通じない人で済ませて、いちいち本気で怒るほどでもない、取るに足りないことと笑って終わればいいが、こういう勘違いが肥大化していくととんでもないことになりかねない恐怖が付きまとう。SNS上では別人格とか、いつの間にか親友になっているとか、過剰になってしまうことはあっても、その先にいるのは、キャラクターではなく現実の血の通った人間なのだ。携帯電話等の通信機器を批判するつもりは微塵もない。機器のお手軽さと人間関係の難しさを混同させてしまったことに気づかないことが怖い(幼稚園児だって人間関係に悩むというのに)。
さて、コミュニケーション不全の恐ろしい映画を一つ。『ラブレス』(アンドレイ・ズビャギンツェフ監督、四月七日より新宿バルト9他全国公開)に登場する家族は、離婚協議中の夫婦とその一二歳の息子アレクセイ(マトヴェイ・ノヴィコフ)の三人暮らしだが、両親はお互いに新しいパートナーに夢中。家も売り出し中で、アレクセイをどちらが引き取るのかでもめている。どちらも新しいパートナーとの生活にアレクセイの存在は邪魔なわけだ。相手のことに何につけても苛立ち、冷めきった彼らは、目の前にいても互いの存在を煙たく思うだけである。当然、家の中にも居場所のないアレクセイだが、彼が透明人間でないからこそ辛い。彼は傍観者ではなく、声なくともそこに存在している。やがてアレクセイが学校に登校していないと連絡が入り、警察とボランティア市民による大規模な捜索が行われる。
 この物語はロシア、モスクワの広大な地が舞台だ。しかしこの物語はモスクワでなくとも成立する現代の普遍性を持つ。時間だけが過ぎ去っていき、不在のままのアレクセイの存在が闇のように映画全体へと広がる。私はこれを家族のかたちを見直す物語だとは思わない。両親はそれぞれ新しい生き方を求め、家族をつくろうとするが、むしろここにあるのは家族という妄想の枠組みにとらわれて自己しか愛せない、他者への愛が存在しないセルフィーだけで塗り固められた世界の寓話なのだ。その世界において、アレクセイの居場所はどこにもな
い。アレクセイが本当に見つからない限り、この未熟で愚かな両親は愚かなまま生き永らえるだろう。この映画の見所をあげるとしたら、本当に気になるところは見せないというところにあるだろう。想像力を働かせ、陰鬱とし、やがてどっと疲れがやってくる。少年の居場所がそこしかなかったということが、壊されゆく家と暗い廃墟に影を落とす。もしこれがある種の寓話なのだとしたら、物語のなかでコミュニケーション不全の廃棄物と化してしまった少年が、別の世界で新たに生きることを望みたい。
恋愛そのものは常にコミュニケーション不全なものなのかもしれないけれど、『心と体と』に出てくる二人の場合はまたちょっと事情が変わっている。ブダペストの食肉処理場に代理職員としてやってきたマーリア(アレクサンドラ・ボルベーイ)は人に合わせるのが苦手で、ちょっと変わり者とみなされているが、とても美しい若い女性だった。片腕の不自由な上司エンドレ(ゲーサ・モルチャーニ、彼は翻訳家、編集者として働いており演技初挑戦とのこと)は温和で落ち着いた中年男性で、離婚経験があり、いまはひとり静かに暮らしていた。ある日、社内で牛用の交尾薬が盗まれたことがきっかけで、犯人探しのために社員全員がカウンセリングを受けることになる。そこで二人は毎晩同じ夢を見ていたことが発覚する。それは深い森のなかで鹿として暮らしている夢だった。鹿でいるときは深い信頼を寄せ合い、素直になれるのに、現実ではなかなか思っている通りに伝えられず(伝わらず)、すれ違っていく二人の姿はとてももどかしい。しかし、そうやって時間をかけて徐々に深い部分に触れ合う原始的な彼らの姿、そしてその先に想像しうるこれからの二人の姿には、心から幸せな交流が見られる。
 音楽だけでなく、この映画にある音、視線、感触、ぎこちない会話のどれもがとても繊細に降り注がれる。この映画に流れる優しさの感情はとても痛みに近い。そして人と人が触れ合うということ、相手の胸の奥底に触れることはとても素敵なことでもあるけれど、一方でとても怖いこともでもある、そんな当たり前のことを再認識させてくれる。
 監督のイルディコー・エニェディは、二人と同様に、鹿たちはまた夢のなかで食肉処理場で働く夢を見るのだと語った。実際に鹿が生きる世界があり、比喩ではない、ということだ。本当に深く触れ合うために、二人はいかなることもコミュニケーションのツールにはしない。とても根本的なことを思い出させてくれる大切な映画である。
(女優・文筆家)







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