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評者◆秋竜山
この大愚者が!、の巻
No.3344 ・ 2018年03月24日
■昔、私も若かったんだなァ……。と、思わざるをえない。若さにまかせてというか。何もわからないままに、有名な禅の巨匠のような人と、出版社の企画で対談のようなことをさせていただいた。禅について私は無知であったから、話にのったようなものであった。馬鹿ほど怖いことはない。怖いものしらずというべきか。対談というものは相手が目の前にいる。相手は私をにらみつけている……、ようにも思える。「なんとかなるだろう……」と、甘い考えだ。開口一番、私は「あの……、禅というものはナンセンスの世界ですね」なんて口から出まかせのようなことをいってしまった。相手が無言。なんていう間だ。私は、さらに「あの……、ナンセンスといいましたが、ナンセンス・マンガのようなものですね」なんて、またしても、いってしまった。無言だった禅の巨匠が口を開いた。「なにゆーかねキミは!!」という顔つきだった。そして「禅はナンセンス・マンガではありません」と、きびしい口調でいい切ったのであった。私は驚きのあまり、後ろへひっくりかえるほどであった。「たしかに禅は、ナンセンス・マンガのようなものですね」と、いう言葉を私は期待していたのであったが、甘かった。永井政之監修『ふっと心がかるくなる 禅の言葉』(ナガオカ文庫、本体四八六円)のページをめくった。
〈落語「こんにゃく問答」によっても知られるように、訳のわからぬやりとりを世の中では「禅問答のようだ」と言います。たしかに予備知識のない人にとって、話し言葉の記録である「禅問答」は、当事者だけが納得できて、余人には理解不能なやりとりとしか見えないかもしれません。しかし禅の歴史や考え方を少しでも学んでみると、「禅問答」が荒唐無稽なものでは決してなく、むしろ禅宗の大きな特徴である人間解放のあゆみそのものを記録していることに気づきます。〉(本書より) もしかすると人間の心の解放というものかもしれない。私の、よく考えもしないのに、即座にナンセンス・マンガのようなものですね!! と口走ってしまったことをコーカイした。「あの……つまり、ナンセンス・マンガというよりも、ナンセンスそのもののようですね」と、いい直した。マンガというとゴカイをまねくおそれがあるような気がしたからであった。ナンセンスの世界といえば理解していただけるだろうと思った。理解していただいたような、いただけないような……よくわからないままに対談は続けられたのであった。 〈「可及其智 不可及其愚」 利口になるより大馬鹿になってみよう。と、いう〉(本書より) 馬鹿ではダメであって、大馬鹿になれということである。大馬鹿になれば、フツウの馬鹿と違うということだ。ヒトは皆、フツウの馬鹿であり、馬鹿でないなんてヒトは一人もいない。ところが、大馬鹿はいないものである。良寛は「大愚良寛」であり、親鸞上人は「愚禿(愚かな坊主)」と、いわれた。「この大馬鹿者が」と、よく叱られるものだが、「この大愚者が」と、いわれたらしめたものであろう。それが悟りの境地というものか。 |
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