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評者◆平井倫行
お気に召さずば――「アート・アーカイヴ資料展ⅩⅥ 影どもの住む部屋――瀧口修造の書斎」(@慶應義塾大学アート・スペース、1月22日~3月16日)と、その「周辺」の出来事から
No.3342 ・ 2018年03月10日




■昨年七月八日、日本異端美の研究者、また刺青の学者としても知られる松田修のご子息、松田晃氏からご連絡を頂戴し、かねて祈念していた先学の墓参りに伺う方々、三鷹にある旧自宅書庫を訪問する機会を得ていた。
 そこには一万冊を超える蔵書類の他、松田修という一人の思想人が蓄えた膨大な書簡、冊子、研究ノート、その他スクラップ状になった断片的な情報群が、さながら塔のように屹立し、迷路のごとき暗い家屋全体に、様々な形の濃く、時に薄い陰翳を落としていた。
 孤高の国文学者が世を去ったのは平成十六年、晃氏の話すところによるならば、氏は以降現在にいたる十四年もの間、遺された資料の行きつく先を思案し、ための前提となる書誌編纂作業を地道に進行されていたというのである。
 その年月の重みについては、およそ筆者の想像が及ぶべくもないが、氏の実直な活動の背景に、ある巨大な意志を有した死者と向き合い、それを鎮めるための慰霊の感情が存在したことは疑いえない。
 学者の遺品を整理する作業とは、大きく言って、その者の思考、魂の行方に深く関与する作業である。したがってその蔵書や筆記などは、研究者にとって際立った意義を有する調査対象となる訳であるが、のみならず、どのような思索家もまた人間であり、また人としての営みを有している以上、その人物が居住していた家や書斎といった空間もまた、当人の思想や記憶、生存の「痕跡」が色濃く残存した、資料的な価値を有している。
 たとえば、そう、たとえば先頃田町にある慶應義塾大学アート・スペースで行われている、瀧口修造に関する展示を拝見してきたが、そこでは物を書く「書斎」というものが、自ずからその人物の記憶を保存し、また自らを記述する装置として、書記の発生する場所となるという過程が、まさしく実感として体験せられた。仕切られたごく僅かな空間内部に、ぐるりと旧書斎の(まずは時系列的とされる)写真・資料群が貼り廻らされ、それはある期間経過の中で、瀧口の著業の中でも、取り分け異質というべき『余白に書く』なる書物が編まれていく「時間」を辿る、一種の実験でもあったのである。つまりここでいう「余白」とは書記の「周辺」「外側」として、流体としての思考が記述と結び付く文字通りの「空間」なのであり、ならば「影ども」とは、「書斎」や、そこを飛び交う意識が、場所において実相を結んでいく印象を綴り出した「空白」、そのものであったということになるだろう。
 「〈影像〉をその発生の場でとらえること」、明治三十六年に生まれ、詩人として、美術批評家として、また特に日本におけるシュルレアリスムの理論的紹介者として大きな役割を果たした瀧口について、谷川渥は、その芸術論の核心が、彼が少年時代に経験した現像液の調合(とその失敗)にあったのではないか、と指摘しているが、なるほどしかりと想像される。岡本綺堂はその『近代異妖篇』において、月の夜に影を踏まれた女が衰弱し、やがては死亡してしまうという美しくも悲しい物語を伝えており、影が人間の魂に関係し、その存在にさえ影響を与えるという感覚は、信仰以前に属する原始的
な感受性なのである。
 かくいう松田修の書庫も、書斎も、今や無く、ただ晃氏の「撮影」した膨大な写真データと「書影」が、いわばそれが「あった」ことを「像」として、「影」として、「記録」している。氏が丹念に保存した、二万枚以上にも及ぶその「影像」とはしてみれば、学者の心の輪郭を、まさしく「表層的」に剥ぎ取っていく行為に、等しかったことであろう。
 後日談、というか、顛末報告として、この松田修の資料群は現在、紆余曲折を経て一時、筆者の自宅資料室にお預かりをさせて頂く形となっている。
 未だ封を切られることもなく山積みされた二十数箱もの段ボール箱は、その異様な存在感を発揮しながらも室内に、いわく言い難い独特な静寂を生み出しており、いうなればここには死者の影が、それこそ形にならず蠢いている状況といえるのであろう。これから進行される調査の果てに、この箱の中身である「影ども」がどのような像を結んでいくのかは、誰にしも分からぬはずである。
 うつろいゆくもの、むなしきもの、それらを踏んで捉えてみたところで、それが一体何になるであろうか。さりながら、よしんばならなかったとして、影に戯れ遊ぶ時間というのは、それ自体が無目的であるが「ゆえに」かえって豊饒なものである。
 結局のところ、「人が影を捉える」ということそのものが「出来そうで出来ないこと」「無理な行い」の喩えであるとさえいえなくもないが、世の中それ自体が影のようなものに過ぎぬのならば、別段そのことに対し頭を悩ましめる必要もあるまい。
 言い得て妙なるは結局、「われら役者は影法師」という一言の警句である。
 もっとも、それを「そう」とすること自体はやはり、一つの「衰亡の形式」、そのものであるのかもしれないが。
(刺青研究)







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