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評者◆秋竜山
あの馬鹿を見ろ、の巻
No.3342 ・ 2018年03月10日




■自分の顔や姿は馬鹿にはできないが、他人のだったら全身馬鹿にできる(つまり見える)。ヒトは自分を笑わないが、笑いのすべてといっていい、他人の馬鹿さかげんである。笑いというものは他人の「アレを見ろ」と、いう表現の形であり、「あの馬鹿さを見ろ」と、思いながら「アハハハ……」と、声になる。そう考えると昔の人と今の人と、どっちが多く笑うかというと、現代人だろう。テレビに映し出される世界中の人々。昔はそんなことはなかった。テレビは社会の窓といった時代もあったが、まさに、テレビは笑いの窓といっていいだろう。テレビを見て笑うのは、画面に映し出される「アレを見ろ」ということである。それが「アッハハハ……」である。であるからして、テレビに出るということは、笑われるということであると思っていいだろう。「アハハ……あの馬鹿を見ろ」と、テレビに出る人たちは、それをカクゴでテレビに出るべきである。
 根本隆一郎編『文豪文士が愛した映画たち――昭和の作家映画論コレクション』(ちくま文庫、本体九五〇円)で〈映画に現われたユーモア、獅子文六〉と、いうページがある。
 〈芝居と、小説と、映画と、三つ較べてみると、ユーモアを味わうのに、最も便利な方法は、映画ではないかと思う。一番割りの悪いのは小説で、ほんのツマらないユーモアを生み出すのに、何百も何千も、原稿の字穴を埋めて行かなければならないのだから、バカバカしい。ちと、御同情ありたきものだ。〉(本書より)
 ユーモア小説の神さまが、そんなことをいっているのである。隣の芝生のようにも思えなくもないが、よくわかる。小説家だからこそ、小説のことをいえるのである。漫画家であったら、漫画のことをいえるだろう。
 〈いつかも、なにかに書いたことだが、昔の電気鍋のニコニコ大会ぐらい、生涯のうちで笑わされたものはない。尤も、あれをユーモアの笑いといえるかどうか、という事になるとムツかしくなるが、そんな問題は別にした。ともかく可笑しい事は、非常に可笑しかった。笑いに酔って、涙が出ることさえあった。考えてみると、西洋風の笑いに影響されたのは、後にマークトゥエンだとか、カミだとかを読んだ時よりも、年少の頭脳に印象されただけに、あのニコニコ大会の映画から受けたものの方が、大きかったと思う。〉(本書より)
 子供の頃、可笑しいから笑うということではテッテイしていた。リクツなどなかった。笑いにはむづかしい理論などいらなかった。大人になるとともに笑いの研究などというものを読んだり聞いたりして、笑いの知識のようなものはふえたが、それによって笑いがふえたとは思えない。子供の頃、月に一回の巡回映画に腹をかかえて笑った。それもみな大人たちの世界を子供が見て笑ったのであった。その時、大人たちってナゼそんなに笑えるほど可笑しいのか? なんて、一度も思ったこともなかった。あの頃は、「喜劇」という言葉とか、その字そのものを、見ただけで笑えてくるものがあった。世の中が不況になると、「笑い」の映画なんかが大流行するといった。笑いを求めていたからであろうが、他人を笑いたいからであろう。







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