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評者◆谷岡雅樹
1、2、3、4ギミー・サム・サヨウナラ――春本雄二郎監督『かぞくへ』
No.3341 ・ 2018年03月03日




■何だ、これは。『夜空はいつでも最高密度の青色だ』が、去年の『キネマ旬報』『映画芸術』誌ともにベストテンの一位となった。九〇年代から二〇〇八年まで『映画芸術』、二〇一〇年から『キネマ旬報』のベストテン選考をしているけれども、一度として第一位作品の一致したためしがない。
 三二歳で胃を全部摘出した時に、人生が一変というより、身体上の後遺症よりも、感情や性格に変化がもたらされた。しかし映画を一〇代の頃のように楽しめない点では同じだった。去年五四歳、心臓手術でステントを入れた。身体はもちろん、心理的なストレスも回避するようにせねばならなくなる。そこで映画を観る目が衰えたのか、頭が鈍くなったのか、心が優しくなったのかわからないが、どれを観ても面白い。『レッツ・ダンス』というアルバムの宣伝文句に〈時代はボウイに追いついた〉という皮肉とも褒め殺しともつかない妙な言い回しがあったけれども、私もベストテンに追いつかれてしまっては、もはや批評を書く意味も功罪すらもなくなったと自分では思っている。サヨウナラだ。終わった。
 『夜空~』の主演は石橋静河。この女が面倒くさくて、良い。面倒くさい女は、日本映画では、不健康な「悪女」とは別に、ある種健康的だが、自律的で、悪女よりも怖くて鋭利だ。『青春の蹉跌』の桃井かおり、『青春の殺人者』の原田美枝子、『台風クラブ』の工藤夕貴、『つぐみ』の牧瀬里穂、『がんばっていきまっしょい』の田中麗奈、『湾岸バッドボーイブルー』の瀬戸朝香。みな面倒くさい。伝統的に。心臓を患ってなお映画から離れられないものなのか。
 今年は、前回書いた『愛の病』を皮切りに、面白い作品が目白押しだ。まずは『ミシシッピー・バーニング』を超えたとか、『地獄の黙示録』以来とかいう形容をしたい傑作で問題作の『デトロイト』が一月二六日に公開。四〇分にわたる白人警官の尋問・暴行のシーンは、ビグロー監督ならではの白眉だ。若者たちを尋問する人種差別主義の白人警官を演じたウィル・ポールターは泣き崩れた。
 そしてドキュメンタリーの『苦い銭』が二月三日。ワン・ビンの前作『三姉妹』で、もう観る前から傑作だろうとわかっていて観るわけで、そういう監督はあまりいない。『三姉妹』に物語はない。ドラマも起きない。インタビューなど
ない。何も質問しない。貧しい村。『苦い銭』もまたそうだ。だが問題が起きている。タコ部屋。搾取される。三姉妹の村と同一地平で繋がっている。『キネマ旬報』で『三姉妹』に激評を書いた原一男は、満を持して登場。『ゆきゆきて、神軍』以来の傑作たる『ニッポン国VS泉南石綿村』は三月公開だ。
 『神軍』は人に覚悟を問うような生硬さがあり、今の原一男は、覚悟の前で自ら打ち震えている背中を「覚悟の上で」見せている。そんな迫り方の映画だ。
 『神軍』には、観客が「観て、良い気持ちになる」仕組みがあった。面倒な介入は原氏に任せて、自分は高みの見物をしているのに、どこかその問題と関わっているかのような意識の高さを獲得できるという錯覚。つまり『神軍』の監督は、共犯関係になる恐怖を感じながらも、甘く考え、軽く見ていた節がある。今回は厳しく重く受け止め感じた上で、その恐怖と相談しながら撮っている様がよく見える。観ていて信用できるし、観る側も行動を促される。原一男は還ってきたのだ。
 八〇年代に、かつてプログレで鎬を削ってきた連中が、『ヒート・オブ・ザ・モーメント』(エイジア)や『恋は焦らず』(フィル・コリンズ)、『ロンリー・ハート』(イエス)と、憑き物が落ちたかのように、ポップに、産業ロック然として余裕をかまして戻ってきた。かつてティーンアイドルや可愛い子ちゃん歌手だった人たちが忘れたころに、オバサンとなって七〇年代の『二人でお酒を』(梓みちよ)、『他人の関係』(金井克子)、八〇年代の『お久しぶりね』(小柳ルミ子)、『熟女B』(五月みどり)とグッと魅力を増す。その円熟が『石綿村』には見られる。原一男七二歳。イイネ。
 一月二〇日からは新潟先行ロードショーで超重量級の傑作『ミッドナイト・バス』。加藤正人の脚本が冴えわたり、竹下昌男監督と主演原田泰造との信頼感が産む断念する物語の凄み。奇跡的な作品だ。二月三日『名前のない女たち うそつき女』は、ヤクザもんを生き切る監督サトウトシキの生き様が静かに噴出した名作と言っていい。タイトルの「名前のない」とは名乗ることの出来ないという否定的な意味であろうが、原作を読むと、作家自身の逡巡と相まって、ガスバーナーで火傷を負わされてなお復帰する最低ギャラの企画女優をはじめ、肯定の匂いが漂っていて、サトウはその領域をも耐えきって撮っている。七二年のヒット曲『名前のない馬』(アメリカ)の歌詞で「NO ONE」(誰もいない)の後の「NO PAIN」について〈痛みを与えはしないから〉とか、〈苦しめるような奴はいないから〉などという訳になっている。NOを強調として捉え、否定的には捉えていない。
 だが私は、本当にNOとして、「痛みのない」と捉え〈砂漠で君は、名前を覚えていることができる。なぜなら君に痛みを与えない者など一人としていないのだから〉と二重否定に考える。「砂漠」とは、現実を離れた、馬(ホース=実はヘロインと解釈された)に乗ってのトリップする旅行先であり、「痛みのない場所」と普通には考えられるが、本当は猛烈な痛みと苦しみの場所であり、したがって、「名前のない」とは、やはり、理想から遠く離れた苦痛を伴うものである。『名前のない女たち』とは、トリップの肯定感覚の裏にある痛みである。ラストシーンは、考えに考えて、結局は作家の人生観がもたらした画竜点睛を欠かずに済んだ一手である。二月三日からの『犬猿』。超娯楽エンタテインメントだ。そして二月二四日からの『かぞくへ』と怒涛の日本映画群。一体どうなっているのだ。タニオカよ。いつからの宣伝屋なのか。『かぞくへ』こそが、今回のメインである。 
 ここで前言を一気に覆しかねないことを書いてしまうけれども、私の書くシーンの記憶など、実際に観た人からは、「違う」と指摘されることが数回ではない。それを再度観ても、同じように見えたり、見逃したりするから私の病は深い。映画はスクリーンを見ているようで、映写幕のその先、その奥、その向こうを見ている。それは頭の中にあり、だからこそ、目の見えない人も映画を観る。観ている。
 それは画面ではなく、その日その時の空気を吸いにいく行為だ。いかに観る力があっても、同時代の空気の中で、熱狂や絶望の真只中で味わった人間に、後追いで観る者が先んじることはもちろん、勝ることは出来ない。名作とは、むしろ、あとからその時代に存在し得なかった虚しさと無念さを味わうものでもある。
 映像記憶力を誇る大学教授はかつて、「映画の語られている全部は、画面の中にしかない」と教養主義を主張していた。そういう奴の吐く言葉は、知識の量と権威と技術によって暴力的に相手を黙らせる毒にしかならない圧力を作用させてしまうことに無自覚だ。作家に「失敗作を撮る才能」などという擁護は必要なく、出鱈目で鑑賞能力になど長けていない個々の観客によって、その先のあり得べき/あり得ない仮想を読み取られてしまう幸運を持っていることが作家である。
 「本当」が人を滅ぼし、ウソが人を幸福にする喜びを、より知っている者が世の中には存在して、映画とはおそらくほとんど無縁に生活しているものだ。
 そういった人たちとの偶然の邂逅こそが、映画の現在の数少ない目指すべき道のはずである。NHK「SWITCHインタビュー達人達」でつんくに対して「あなたの歌は不幸な人にしか響かない」と放ったマツコデラックスの言葉は最高の賛辞だ。
さて、『かぞくへ』である。南木佳士の『家族』や筒井康隆の『家族八景』のように何を考えているのかもわからない信頼関係を描く方が、皮肉が効いて傷を負わずに済むという考え方もあるが、監督春本雄二郎は正攻法で攻める。
 これは実話なのだろうな、と思って観ていた。これから家族になろうとする婚約者と暮らす男が、古い田舎の友に「イイ話」を世話する。ところが「イイ話」ではなかった。友と婚約者との間で苦しむ男。『あゝ、荒野』にもボクサー役で出ていた松浦慎一郎だ。その「イイ話」の内容についてよく確かめもしなかった。だけど、いやだからこそ。これが実話の重量感だと実感させられる。というのは我が身に覚えが何度もあるからだ。
 ともに観た友人は、しかし「なぜ騙されるのかがわからない。脇が甘すぎだ」と。映画作家の彼は、大学でも教えていて、本業はもはやそちらであり、「定収入があるのは助かる」「来年の更新が怖い」などと私に語る自称監督や自称脚本家は数多くいて、彼らは皆、カタギの気分でしか表現できなくなっている。
 ついうっかりの気持ちが、騙される気持ちが、田舎者の論理が、マイノリティーの、そこでしか生きられない人生が、正社員になれない、国籍のない者たちの切羽詰まった余裕のなさが、なぜわからないのだ。騙されたがっているわけではない。人を信じたいと思っている。隙があるから友だちが多い。信じたい気持ちがあるから騙される。信頼したい。四角四面のハリネズミのような人間には皆近付かない。そういった人間は、騙されもしない。友だちも存在せず、物語も生まれない。人間の関係が複雑に絡まないうちに人生が終わる。そんな「余裕」に喰い付いてしまった表現者が、今の日本映画の「教授」たちである。
 しかし一方で、幾人かの作り手たちは格闘し、『かぞくへ』の田舎者が、『デトロイト』の黒人や『苦い銭』の中国人労働者と、AV現場で働く「名前のない女たち」と、『石綿村』の被害者たちと、地続きで繋がっている。労組の今は、社内でよりも、会社を超えた労働ユニオンの方が有効であり、もっと言うと、国を超えて労働者が交信し合わねばならぬ。私も年末からの猛烈な痛みで入院となった。万国の病人と手を結ばねばならぬ。隣の友より、遠くの同志。痛みのアンテナがキャッチする。機は熟している。(Vシネ批評)







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