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評者◆平井倫行
葉巻はいかが――「ゴッホ展 巡りゆく日本の夢」(@東京都美術館、2017年10月24日~2018年1月8日)の印象から
No.3340 ・ 2018年02月24日




■春の日の冷たい青空の下、千切れゆく雲を見つめていると、気持ちがつい上の空になるというか、思考が固定した形を結ぶことがなくなってしまい、しばしば困惑してしまう。
 これもみな季節の移りゆく時宜ゆえの独特の感想、ではあろうが、それというでもなしにこの頃にはいつも、己の無力さや虚無性のようなものを、しかし不思議とさめざめとした心地よい諦念の中に見出しながら、身も世もみな砕けてしまいそうな、それでいてなにやらひどく「息苦しい」ような、奇妙な穏やかさで脳液を満たしている。
 恐らくはこの空の「青さ」がそうさせるのであろう。
 青空が持つ狂気性、それはなににしも落ち着かぬものではあるが、その一方でこの魔術的魅力は、実に不気味で、かつ不可解な静止をも要求してくるのであり、人はその渦中、否が応にもその心を狂操へと駆り立てられながら、同時に「ただひたすらに平静であること」「中立し続けること」を、強く任じられてもいるのである。
 時に日常からの逸脱とし、またしばしばそれが「花」と喩えられる刺青にも、どこかしら同様の意味合いというものが存在していて、それはいうなれば、狂気に対する自律性の強度、と言い換えてもよいものであろう。こと芸術観念上、「狂気」は時に積極的なものとして捉えられることも多い反面、では果たして、そうした論理の外側にある「正気」とは、かくした常の理に対し絶えず、その価値を失するものであろうか。
 今から百三十年ほど昔の春、吹きつける季節風の中、地面に刺したイーゼルを前に筆を揮ったフィンセント・ファン・ゴッホの生涯とはまさに、そのことの意義を問う、字義通りの「問い」そのものであったように思われる。
 一八五三年、オランダの牧師の家に生まれた画家は、一八八六年にパリへと向かい、当地で印象画の手法を学びつつ、まさに目前で流行していたジャポニスムから多大な影響を受け、特に浮世絵からは深刻な感化を蒙ったとされる。事実、色彩や主題、構図において、ゴッホが日本美術から得た着想は大きく、それは彼の画家としての在り方を方向付ける大きな焦点ともなったが、しかしその画業においてむしろより重要であったのは、そうした単純な技法的問題を越えた「日本」への「憧れ」であり、南仏アルルへと向かったのも、その風景の中に自らの美的理想郷としての日本を求めた、一つの離脱行為であったと言ってもよいであろう。
 ほとんど伝説的に粉飾されているこのアルルでの生活とはしかし、そうした艶やかな夢想とは裏腹な、瓦解と挫折の連続であった。現在なお語り草となるゴーガンとの共同生活にしても、その内実は僅か二ケ月で破綻をきたした関係性であり、またその画業は一貫して、遺伝的精神不安や、見知らぬ土地に住む「異邦人」としての偏見の眼に翻弄された日々と言って、決して言い過ぎではない。
 分けても一八八八年十二月二十三日に起きた有名な「耳切り事件」は、ゴッホのその後の人生を転落させる大きな要因となったが、画家がなぜ突如それほどの神経発作に見舞われたのか、定かな確証は存在せぬも、事件当日、彼が最愛の弟・テオからの婚約の知らせを受け取っていたことは注視すべき、しかし極めて重要な問題であったと言えるのかもしれない。
 実生活と経済上の負担の全てを、この弟の献身的愛情に依存していた画家にとって、皮肉ではあるが、その当の弟の幸福な生活の確立は、彼の夢を脅かすものという構図として立ち上がらざるを得なかった。そしてそのことを痛く自覚した瞬間、画家は自らの持つエゴイズムの深さに、当惑せざるを得なかったことであろう。
 さにあらずか、この事件以後、彼は己の「日本の夢」に対する言及を、ほとんどしなくなるのである。
 晩年描かれた《花の咲くアーモンドの木の枝》という作品は、画家自ら「最高の出来」と評する逸品であり、これはその弟の子、甥の誕生を記念して制作されたものである。柔らかい青を背景に咲く小さな白い花、それは何ものをも持たぬ彼が、その時唯一「自らのものとして」贈ることの「出来た」、精一杯の祝福であったろう。アルルに移住して間もない頃、画家は同じアーモンドを見た時の印象を、「ぼくはもう日本にいるような気分だ」と嬉々としてテオに書き送り、何点もの作品を制作していたが、その時の花の色は、この絵の具の淡いにも、確かに溶け込んでいた筈である。
 酔わねばならぬと誰かが言ったが、刺青が「花」に比せられ、またもしその「花」が芸術表現上、ないしは人生観念上の狂気を賞賛するものであるとしたならば、しかしそれはあくまでも、その価値に対峙する「正気の花」が想定される限りにおいでなくてはならない。
 彼は決して「狂人」だったのではなく、その狂気の最中、必死で「正気であろうとした」人物であった。
 一八九〇年、画家は一人、銃による自殺の道を選んでいる。

 「こんなふうに死にたかった」

 今年も春の空は、どこまでも静かで、美しい。
(刺青研究)







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