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評者◆谷岡雅樹
二人で今、この世間と闘っとるんや――吉田浩太監督『愛の病』
No.3334 ・ 2018年01月13日




■妻の友人が仕事を三つ掛け持っている。
 一つは正社員で紙の製本の仕事だ。月曜から金曜の毎日朝九時から夜六時まで。給料は総支給額で一五万に満たない。そのあと夜九時から深夜二時まではスーパーに配送される商品のピッキング。疲れた身体で車を飛ばす。そして土曜、日曜も朝から夜まで蕎麦屋でのアルバイト。二人の高校生を抱えるシングルマザーだ。休みを貰って、息子の部活の遠征試合を観にいくのが唯一の楽しみだ。借金は膨らんでいく。「まだ身体は丈夫なのでイケる」というが四五歳だ。「どうにかならないものかしらねえ」、と妻。
 相談されても、この憤りと虚しさはどこに向ければよいのかと途方に暮れる。私が政治家になったとしても何が出来る。フジテレビの「月9」こと月曜九時のドラマは、主婦が市会議員になる話だ。妻の友人は出勤時間のために見ることは出来ない。しかし彼女が見ても楽しめないだろう。主演の篠原涼子は第一話で、不真面目な政治家に向かってこう叫ぶ。「時給九五〇円の生活も知らないくせに」。これに対して当然の如く、ネット上では笑われる。〈「民衆の敵」というドラマで篠原涼子が“時給九五〇円”と喚いていたが、ウチの地元は七〇〇円。時給七〇〇円の生活も知らないくせに民衆の代表面するな〉。
 そりゃそうだ。時給九五〇円は夢の数字で、ドラマを見られない妻の友人もそれだけ貰えていないし、全国の二〇一七年一〇月現在の最低時給(厚労省による改定状況)は、東京都の九五八円を筆頭に、八五〇円以上が四七都道府県中一都二府四県のみである。一体どこを見てドラマを書いているのか。さらには基準通り払っていない違反横行が現実であり、そこを描くのがドラマだと思うのだが、まるでズレているし、作り手の「分かったつもり」がバレるからこそソッポを向かれる。低視聴率は当然で、今の日本映画の不人気と同じ理由だ。市民感覚と乖離している。詳しいことは次回書く。民衆の敵はお前の方だ。
 苦しみや絶望を体験した者にしか出来ない表現がある。痛みのない者が、切羽詰まっていない者が、無理して表現行為をしても、それはそれ。承認不要、未発見のままでさえ良い作物と私は感じる。映画を作るより義足を作れ。出来れば義足以上に強力な映画を作ってほしい。文章も同じだ。美しい言葉など不要だ。生きる力になる方法を伝えられなければ、サロンで開陳する遊戯に過ぎぬ。命を賭けて、血を吐けよ。

は、正月早々に傑作が公開される。『愛の病』。大人しいタイトルだ。これは『ケンとカズ』以来で、と書くとつまりは『竜二』以来であり、或いは『狂い咲きサンダーロード』以来の胸騒ぎのする痛快なる反逆の旅だ。なんのこっちゃ? と思う人はどれでもいい。ひと先ず観ろ。同時代人として日常的に映画を観続けてきた馬鹿さ加減の血を吸ってみろ! と言いたい。
 『愛の病』。脚本は石川均。待っていた。突き抜けた弩級の豪速球『最強鉄腕伝説・喧嘩の花道4・5』の監督でもある。その脚本を書いている龍一朗は本作の製作もしている木村俊樹で、しっかりしたエロを撮りたいと言っていた。それが監督吉田浩太で結実したのではないか。エロ、暴力。偶然と気まぐれの連鎖。
 映画は見せ物だ。究極は、恐怖や不安をあおり、興奮と脅威と感動を与える作物で、時代がざわついて人々に余裕がなくなると、多くの生活者は娯楽どころではなくなるゆえ、製作者は観客をギリギリ繋ぎとめようとして、災害映画、パニック、ホラームービーへと向かう。資本力と消費環境のない(他の娯楽に比べて料金が高い)日本では、身内のパニック、身内のホラーへと矛先を絞る。どんなに追い込まれて「制限」され「制約」されても、その中で「或る者」は撮るはずだ。しかし昨今の犯罪映画。タイトルは挙げないが、ことごとく、怖くもない安い残酷描写、つまらなく情けない見かけ倒しばかりだ。不安の正体は何か。そこを誤魔化しては描けない。だが作る側自体が切羽詰まっていない。不安がないのか、馬鹿なのか。或る者とはいったい誰なのか。サービスデー一〇〇〇円でも観にいく気がしない。しつこく書くが、「批評する側」が甘い。製作や配給側の人間と繋がり吊るんでいては「お手盛り」「手心」「業界事情」を加味した別働隊の宣伝担当となるだけではなく、狼少年となって、本物の「狼」を知らせ損ねてしまう。たとえ傑作が存在しても、お手盛屋の愚作へのリップサービスによって暗殺されていく。
 主演は、瀬戸さおり。今年現れた女優の中で、石橋静河、吉田円佳と共に、映画的恍惚をもたらす圧倒的に危険で物騒なニュー・ヒロインだ。鬼畜は突然生まれるわけではない。生育環境が存在する。「貧困が我が犯罪の元」と言った永山則夫を否定できない。加害者であっても犯罪遺伝子を持って生まれてきたわけではない。社会の被害者的側面があり、巻き込まれ、レッテルを貼られる存在となる。貧しい者に「自制心がない」のではなく、貧困ゆえに自制心を奪われる。主人公はシングルマザー。金に困って出会い系サイトに手を染める。罪の意識。境界線。結局、どこからが犯罪なのか。行き過ぎのラインを引けるのか。
 二〇〇二年に和歌山県で起きた出会い系サイト殺人事件がモデルである。主犯は出会い系で知り合った男に、自分はヤクザの娘だと騙る。男の声色を使ってヤクザの幹部を演じるが、騙される側の男も「オカマのヤクザ」と信じ込む。岡山天音は注目の俳優だ。パワハラ上司が自らを善と思い、真面目な部下ほどその要求に応えようとして、死に至るまで頑張るのに似ている。犯行に加担する出会い系の相手は、ブラック企業の過重労働のスパイラルに乗り、悪に貢献していくように、凶悪をエスカレートさせていく。二人の関係。
パニックの醍醐味は人が右往左往するのを見ることであり、ヒーローがどういう決断をするかではない。そこでは、主役の決断も含めた外圧に翻弄されながら、「脇役が何をするか」が問題なのである。基本的には、人類がその危機にどう立ち向かい、苦難をどう克服するかがテーマだ。しかし実際には、製作している国にとっての問題であり、多くは我が国、我が町、そして我が家族の問題でしかない。達成とは、事実上の侵略行為であったり、自身の肥大化である。だが、本当の目的は、それまでの価値の温存などではなく、化学変化であり、自分とは別なる存在、未知なる体験を認めて共に生きることである。それは相手が、天変地異でも地球外生物でも、気になる隣人や会社の上司や学校のいじめのボスであろうと同じである。違和を受け入れながら生きていくという地獄の苦しみである。つまりは、二人の関係の実験、爆発は、犯罪の誕生する瞬間なのだ。地方都市、ネット関係。異常が異常を生む。
 粗雑な人間同士が出鱈目に展開し、偶然が悪に魅入られるように暴発し、関係を複雑化させ激化させる。人間はどんなに立派と言われる者でも、欠損があり、或る者にとっては優しくない存在だ。それがバレずに済むのは、経済その他の隠れるだけの余裕が一生の長さだけ間に合った、という程度のことだ。その人間に適した職業が、その時代に存在した、とか。ただそれだけのことである。
 下らない映画やダメな脚本は、悪を滅ぼそうとして、犯罪者を怪物化して、自らとは別物と考える。だから安易に同情したり美化したりする。二児放置死事件を扱った『子宮に沈める』は、シングルマザーの加害を弁護する。しかし彼女を孤独に追い込む側の社会に作者はいないのか? 己が加害者を追い込む恐怖の側として存在していることに気づかない。本当は災害パニックと同じで、解決不能だ。
 パニック映画を観る私の楽しみと言えば、悪い奴、もっと言うと金を持っている奴がひどい目に遭う姿を目撃しに行っていた。ニュースであれ、身近であれ、日常、目にするのは、どんなに悪い奴でも(悪いが故に金を持っていることも多いのだが)、因果応報の如く痛い目に遭うことなどないという現実である。そして、どんなに立派で一生懸命生きている人間でさえ、報われず逆に悲劇に遭って死んでいく。そういう世の中であった。自分自身は、どちらかと言えば恵まれた立場にいたと思うが(そもそも高度経済成長期の日本人であれば、多くは他国に生きる人間の悲劇を憐れむことに無意識の喜びを見出していたはずだ)、それでも、映画の中では、自分が巻き込まれ殺される悪い奴の側にあってさえ、世の中とは逆にそう完結してほしいと思い観ていた。つまり自分が殺されてもよい。災害であろうが、大魔神であろうが、ひたすら悪は滅ぼされ、善は助かるという、もしくは一緒にもろとも死ぬという映画を期待して観にいっていた。共に死ぬということは、多く持っている者ほど、失うものも大きいわけで、ゼロになっても初めから「持っていない」貧しい者は、マイナスも少ない。ザマアミロというわけだ。
 しかし現実はそうではない。社会は理不尽で、悪い奴が単純に悪いわけでもなく、助かるべき善人などどこにもいない上に、それらを差配する神もまたいないと実感させられる。
 才能や技術、或いは腕力や政治力でどうにか解決可能な問題と、不公平や運命などで引き受けざるを得ない問題とのバランスが、パニック映画でなくとも示される。危機や犯罪に瀕したとき、浮き彫りになるのは、助かる重さ、軽さ、つまり階級である。そしてその立ち位置にあっての性格、人格、生き様である。生活も地域も家族も崩壊している。
 幸せって何だ。声色を使い、悪を演じているうちに、演技が演技を生み、その気になって、調子に乗る。人生はそれでもいい。そのつもりでスターにも、ヒーローにもなる。暴力の快感に抗えない。
 主人公がこう叫ぶ。「一緒に闘っていくんや。このしょうもない世間となあ」。
 分かったつもりの日本の犯罪映画だらけの掃き溜めに鶴が首を出している。
 シングルマザー。時給七〇〇円。やけくその首が。
(Vシネ批評)







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