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評者◆稲賀繁美
凧(いかのぼり)きのふの空のありどころ――真偽の狭間から立ち昇る贈与の生気
No.3329 ・ 2017年12月02日




■今日の空の背後には昨日の空が浮かぶ。高く舞う凧が、もはや眼前にはない風景へと心を誘う。むろん、昨日の空は本日ただいまの空とは違う。天候は刻一刻と微妙に移ろいながら、季節の移り行きを歳時記に留めつつ、年単位で周回する。その循環のなかで、何十年も前の記憶が、ふと仰ぎ見る空に映じもする。「きのふ」とは文字通りの昨日でもあれば、幼少の遥か昔の光景でもある。追憶は、反復のうちに差異を重ねつつ伝播し、不意に到来する。
 蕪村のこの句が松岡正剛の『擬 MODOKI』には何度となく再来する。「うつし」とは「転写」だが、それは同時に「うつろい」変貌を遂げてゆく。その変容の「ずれ」の軌跡と重畳の彼方に昔日の「おもかげ」が宿る。「面影」とは表情の痕跡でしかなく、「ゆめ」と「うつつ」のあいだを揺蕩う。失われた痕跡をもとに、人は空しくそれを擬態する。「擬」はしたがって「喪失」を前提とする。だがこの「あと智慧」は、過去へと遡及し、再生に貢献する。回顧の視線の裡に、後付けとしての「真実」がその片鱗を、ちらりと漂わせる。
 空虚な器に、手遅れと知りながら、先延ばしの負債を盛り付ける――。その擬態に歴史の「ありどころ」を見る態度。それが「二十綴」に様々に変奏されつつ、周回してゆく。「千夜千冊」の手練れの話術・編集の秘術が遺憾なく発揮され、間然としない。だがその技法もまた「ちぐはぐ」をしばし生け捕りにするための「擬」に他ならない。鎮具は金槌、破具は釘抜きを指すという。一方が入力なら他方は出力。両者は互換不可能な道具だが、かといって双方が揃わないと仕事は立ちゆくまい。矛盾律や排中率が除外する「どっちつかず」は「ちぐ」と「はぐ」との間隙に、その住処を見出す。そして生命現象が「ちぐ」と「はぐ」との間に巣食う、「矛盾」した営みの謂であることも、すでに明らかだろう。
 風を受けて中空に舞う凧は、「いのち」の風音に探りを入れるための共振ゾンデだろう。それは「解明」を目的とするのではなく、いわば「触診」の機材である。人生の機微に「ふれる」のはcontingentな経験である。「偶有性」という難しい訳語が宛てられるが、必然の機構の外で、状況や経緯から触知が発生する事態を指す。接触によってはじめてそこに双数あるいは複数の主体が、相互感知される。その様態は比喩的に言えば「中動態」的、すなわち能動でも受動でもなく、空隙が充当されることで「抜き型」が顕現するような表裏の彩=綾。そしてそれを主体性の介入と誤解した瞬間に、その危うい平衡はすでに霧散している。
 本書に共感を隠せないのは、それが「偶景」incidentsへと開かれているからだ。事物の「濃淡」や揮発性volatilityを弁え、「多少の不埒」と「借り」が社会には不可欠と断言する。その聊かbookishな妙技を「横取り」して下手に「擬く」誘惑もまた抗し難い。だが本書を「すべからく」拳々服膺「すべし」などとお勧めしても、蕪雑な反復による劣化と希釈を招き兼ねまい。「すべからく」は「おしなべて」へと変節しがちだ。Global基準の氾濫に警鐘を鳴らす「ちぐはぐ」擁護の理説は、汎用の危険から事前に救われているのだろうか?
*松岡正剛著『擬MODOKI――「世」あるいは別様の可能性』(春秋社、2017年9月20日刊)







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