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評者◆谷岡雅樹
悪と付き合い、悪と相談する チョ・ウィソク監督『MASTER/マスター』
No.3326 ・ 2017年11月11日




■東名高速道路の話だ。停車中のワゴン車にトラックが突っ込み、両親が死亡、娘二人が負傷という事故が起きた。なぜ止まっていたのか。しかも三車線一番右の追越し車線にだ。実はその前方にもう一台の白い乗用車が存在した。走行妨害し進路を塞いでワゴン車を止めた。パーキングエリアでのマナー違反を注意され、逆ギレして追いかけたのだ。JNNの取材で生き残った長女が、こう証言している。「高速道路に投げてやろうか」と胸ぐらを掴まれた父が道路に引きずり出された。六月に起きた事故だが、四カ月以上たっての事情判明。追いかけた男の方は、「高速道路で追い抜いたら、あおられたので止まれの意味だと思って止まった」と証言している。これは特殊な事件とも思えない。私も後ろに張りつかれ、死ぬ思いを何度かした。至る所に逆ギレ魔は存在し、一過性の道路内なら逃げれば済むが、学校内や会社内で出会うと、そうはいかない。毎日が地獄だ。
 悪人は明らかにいる。会社にも、学校にも、おそらく国会にも。そして、話が通じず、会話が成り立たないのに、居場所が確保され、或る場所では上司であったり、先輩であったり、代表であったりする。そんな奴らが野放しになっているのが実情だ。
 では、悪人をただ単に排除するという方向に行かないのはなぜか。バカを社会は裁けないからだ。悔しくても注意出来ない。むしろ相手にしない。触らぬ神に祟りなし。たとえ人助けでも面倒には関わらない。無関心社会の形成。法や警察が頼りになり、社会的な後ろ盾や支えがあるなら、強気にも出られるが、そうはなっていない。悪は蔓延する。
 野放しとなる理由はほかにもある。鎌倉時代まで、勇猛さや厳然とした様を讃える意味で、源義平は「悪源太」、藤原頼長は「悪左府」などと呼ばれている。悪党の意味も「力の強い勢力」だった。中国における悪の概念、すなわち「命令・規則に従わない者」という価値評価が浸透した結果が、現在の「悪」の捉え方であろう。つまり、悪は単に「善の側から見た排除対象」ではなく、元々は、突出し並はずれ、支配の側からすると厄介な者に与えられる称号でもある。たとえば映画では、『仁義の墓場』で警官隊と銃撃戦を演じる死神ヤクザや『TATTOO〈刺青〉あり』の人質籠城犯であっても、高速道路の逆ギレ男さえ、ヒーローとなり得る。そこには規律からの逸脱や超越、無軌道への憧れや興味が投影されている。それは自らの中にある悪が、何かの拍子で頭をもたげ露出し、善の側からいつ告発されるかという恐怖も同時に内包されている。相手の悪を叩きたいのは山々なのだが、自らの悪と向き合わずしての排除殲滅など、無鉄砲なブーメランに近い。
さて、主演イ・ビョンホンが悪を演じる『MASTER/マスター』である。韓国犯罪史上最大の金融投資詐欺事件がモデルだ。「貧乏人に甘い夢を見せるのが俺の仕事だ」。そう語る主人公。悪人は皆、同様の言を吐く。地下鉄サリン事件も、あさま山荘事件も、「世の中を良くしたかった」と少なくとも表現している集団が起こした。本気で信じていることもあるし、その他の可能性について無知な場合もある。その能天気さに対して、日常のアクセクで疲れている者は羨望を抱きもするだろう。スターへの憧れ、芸能の民への期待もまたそうである。映画は、俳優の身体を伴ってその両方を虚構の中で体現してみせる。
 日本の映画が、いつの間にか、この犯罪者側の「悪」の視点を欠いた、「あちら側」の物語として、余所事として、市民の側からの害悪としてしか描かれなくなったのはなぜだろうか。犯罪学者エルンスト・ゼーリッヒによる九つの分類には、原始反応犯罪者と社会的訓練不足からの犯罪者の型が存在するようだが、それでも「粗暴」とは、人間から知性を外した人間以前の動物性の中に存在するものではなく、人間の持つ知性の歪みの中にこそ存在すると私は考える。得体の知れぬ悪魔や手の付けられない想像を超えた者として悪を描くのは、表現の放棄だ。
 『MASTER/マスター』と同じく三人の男がぶつかり合う暴力映画『ビジランテ』(チラシの図柄も似ている)は、全くグッと来ない。『アウトレイジ』前二作の加瀬亮と同じく、実感からかけ離れた絵空事としての暴力描写が出てくる。演じているのは般若というラッパーだが、想像上の役割を演じさせられていて可哀そうだ。般若は、作り手の暴力表現の道具の如く、3Pをして、桐谷健太の手の甲を食用の箸で貫く。『愛と誠』で、きみのためなら死ねると言って耐える岩清水弘をリンチする高原由紀の如く、惚れてしまいさえする心の痛みを伴ったグロテスクならば、観る側も表現の味わいがいというものがある。だが般若の痛みは何なのか。
 『アウトレイジ』でも使われた『マラソンマン』の歯の治療器具での拷問や、『戦後猟奇犯罪史』での人間ミンチ、『網走番外地』シリーズでの今井健二らを葬る数々のグロテスクな殺害方法は、戯画化されていて、残酷を一度昇華した跡が感じられる。だが、『ビジランテ』ほか昨今のそれは、宮崎駿の前でドワンゴ川上量生の見せた「障害者の動きを面白がるCG」に等しい。宮崎駿は生命に対しての侮辱と語っていたが、私は、暴力を行使する人間の粗暴さに対する軽視を感じる。こんな程度であろうという思い込み。作り手が、自らを悪の側と思わない場合、考察への敬意は不足する。
ゴーストライターの手によると言われているが、『絶歌』(元少年A/太田出版)の内容を、私は当人が書いただろうと思っている。既に『いじめと妬み――戦後民主主義の落とし子』(土居健郎・渡部昇一/PHP研究所)で、土居が分析した「神戸少年殺人事件に思う」をほぼ丸ごと、書き写したかと思われるほどに酷似している。当人が読んで参考にしたのかもしれないが、むしろ土居の分析通りだったのではないかと考える。これは、私自身の中にある声と照らし合わせての感想である。
 宮崎勤事件から三〇年目のドキュメント番組を見た。宮崎が、四件の殺害のうち、一件だけを隠した理由について、番組では、こう説明していた。その一件だけは、翌日に宮崎が自ら捨てた遺体を見にいくと消えていた。だからバレない可能性があり、一件でも減れば判決も軽減されるのではないか。少しでも罪を免れようとしたと。しかし、私はそうは思わない。人は秘密を持っていたい。自由でいたい。「私」生活の全部がバレることは、家族に対してさえ嫌なのだ。特に宮崎のように、自分のことを周囲からよく理解されてこなかった残痕をある程度知って生きてきた人間には、この気持ちは強いはずだ。どこか小さなウソをついて、何か秘密にしておきたい。自分の領域を確保したい。そのことが特に有利に働かなくとも、知られてしまう裸の恐怖に比べれば、隠れた安心感をもたらす。決して相手の弱みを握ったとかいう類の武器ではないが、隠し続けられる限り、自分だけしか知らない武器を手に入れた感覚となる。
 この「秘密」こそ、成功の必要条件だ。世の中の成功とは、少しのズルやショートカット、奴隷による手分けを必ずや含んでいるものである。スポーツやギャンブルのルールは、主催者や胴元が儲かるようにするために悪を抑え込むものだ。支配者側が決める国家の法律もそうだ。プロ野球三冠王の野村克也に『負けに不思議の負けなし』(朝日文庫)という著書がある。実は「負けは不思議の負けだらけ」である。勝ちに拘る野村が、勝利の持つ不安定さを誤魔化すための方便だ。
 『MASTER/マスター』の三人は、それぞれにこの秘密を巡って格闘する。悪の実現に挑戦し成功を望む詐欺師のイ・ビョンホン。悪の道に失敗しながら、詐欺師と刑事の両方を手玉に取ろうと裏切り葛藤する若き天才ハッカーのパク・ジャングン。悪との戦いの中で、自らの悪とも闘うエリート警察官のカン・ドンウォン。三者三様に、悪を基準とし、或いは悪に揺れ、悪と対峙する点において魅力的なのだ。
なぜ悪が、ヒーローとして繰り返し描かれるのか。その理由は、善とする側に不確かさがあるからだ。善を基準とするから、相対的に悪が浮かび上がる。つまり迷惑を掛けられる側という主体が、絶対的な善であれば、「悪」として問題はない。だがそんな善はない。善それ自体が、たとえば復讐も排除も、裏返しの悪ではないのか。悪もまた、当然それ自体が悪というものはない。たとえば「理屈っぽさ」は、ものを考えたり論じたりする世界では比較的重宝されるが、工事現場や体育会系世界ではむしろ邪魔な扱いとなる。悪とも善とも言い難い。北朝鮮のミサイルは悪なのか。九月二〇日、国連総会で安倍首相は「必要なのは対話ではなく圧力なのです」と述べている。ではどうすべきか。
 電車に乗っていて、歩けるだろう三歳位の子が乳母車の上から、親を指図しているのを見たことがある。周囲の人間(私は特に)も、その見苦しさに、注意したい。だが出来ない。出来ないのは、子どもながら、その横暴さ、支配的な声などがはっきり言って怖い。こんな子が大きくなって、いじめの主犯を演じ、手下につけた連中を使って、いじめの対象を死に追い詰めたりするのだろう。無知でもあり、腕力もない子どもであっても、なぜそれほどまでに自信があるのか。
 学校や会社などでも、先生や、親や、年長のしっかりとした考えの者でも、まるで注意出来ないほどの恐怖の人間がいる。こういった者に対抗するには、闘いであるという自覚がなければ生きていけない。法や警察は守ってくれない。
 誰かに守ってもらうという方法であっても、それを獲得しなければならない。言葉は悪いが、戦争だ。相手が会社の上司でも、国家でも、高速道路の逆ギレ男でも、闘いにほかならない。
 なぜ映画を観るのかは、悪を観にいくからである。初めに善があるからではなく、悪があるからだ。勝利した方の悪を善と呼んでいるだけである。悪に相談し、どうやって自らの悪を減じていくか。ただそれだけのことである。簡単なはずがない。(Vシネ批評)







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