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評者◆秋竜山
漫才と哲学、の巻
No.3326 ・ 2017年11月11日




■岸見一郎『幸福の哲学――アドラー×古代ギリシャの智恵』(講談社現代新書、本体七六〇円)を読みながら、本書の文章に、ある発見をした。これも哲学する!! の、ひとつか。漫才という文字に変えることによって、漫才論まがいのものになってしまうのである(と、思った)。〈人は一人で生きているのではなく、他の人々の間で生きている。人は、一人では「人間」になることはできない。〉と、本書の文章。〈漫才は一人で成り立つのではなく、他の人々の間で生きている。漫才は、一人では「漫才」になることはできない。〉残念ながら漫才を一人で演じているのを見たことがない。
 〈人は個人として限界がある。アドラーは次のようにいっている。「もしも人が一人で生き、問題に一人で対処しようとすれば滅びてしまうだろう」(「人生の意味の心理学」)〉(本書より)
 漫才は二人で演じることによって客は喜び手を叩いて笑う。漫才は個人として限界がある。つまり、二人の漫才師が舞台にあがる寸前に、いいあいの喧嘩をはじめる。一人が、お前と一緒に舞台へあがる気分にならないから、お前一人であがれ!! という。こういう事態こそ漫才の限界である。名コンビの一人の漫才師が、ある事情で一人になってしまった。その時、一人が舞台で、「そんなわけで、一人で漫才をさせていただきます」と、いって客がゆるしてくれるだろうか。それでも、漫才師は一人ではじめたとする。漫才は二人一組での会話によるものだ。二人並んで一人が「実はですねえ。今日会社へ出勤する際にですねえ……」なんて、いう。本来なら、脇の相棒が、「ホー、成る程」などと「うなづき」かえす。ところが一人だと、脇のいない相手に話しかけることになる。中国禅の公案に、片手だけで叩いて手の音を出せ!! と、いうようなのがある。両手あって手の音が出せるのであるが、片手だけでは空を切るだけで音が出ない。漫才でいうと、相手がいないのに、いない相手にうなづけというようなものである。
 〈アドラーが人間を生物と見た時に、この自然界では弱い存在であることを念頭に置いていった言葉だが、人が一人で生きることができないというのは、生物として弱いというだけの意味ではない。「われわれのまわりには他者が存在する。そして、われわれは他者と結びついて生きている」(アドラーの前掲書)〉(本書より)
 職業としての漫才は二人によって生み出すお喋りのお笑い芸術であるが、客あってのことでもある。たとえば、二人っきりの無人島で漫才をしたとする。客が一人もいない。いるのは魚だけである。魚を客といえるだろうか。
 〈アドラーは、この他者との結びつきを「共同体」と呼んでいる。(略)共同体の最小の単位は「私」と「あなた」である。この「私」と「あなた」という二人の結びつきが人類全体まで広がるのだ。〉(本書より)
 つまり、夫婦そのものである。昔の流行歌に♪あなた~と呼べば、あなた~と答える。山のこだまの~何とか、というような歌詞だった。漫才の主役は「笑い」であることを忘れた漫才ほど笑えないものはない。とはいえ、それを面白がる客がいたりする。そこが「笑い」の、むづかしさでもある。







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