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評者◆稲賀繁美
触れること・触れられること・擽ること――「中動態」から社会正義の根幹を問い直す(3)
No.3314 ・ 2017年08月05日




■フランコ・バザーリアFranco Basaglia(1924‐1980)は、イタリアを精神病院全廃に導く「法律180号」を1978年に制定した立役者。パドヴァで学業を終えた彼は、裕福な患者相手の世間的な出世街道を外れ、現在のスロヴェニア国境に位置する辺境の町、ゴリツィアの県立精神病院長に着任した。そこで彼は若き日の経験を反芻した。地下抵抗活動を密告されての収監。精神病院の環境はその再来だった。さらに北イタリアは解放後に自立autonomiaを体験した。これら両者相まって精神病院制度からの脱皮が懐胎した。
 敗戦後に若き日を体験した世代には、イタリアでも日本でも、ある共通性が認められる。「職場の歴史をつくる会」の代表を務めた竹村民郎(1929‐)。彼は講壇の高みから演繹する「進歩史観」に疑問を抱き、労働者の現場から社会を文字に起こす運動を展開した。肉体労働者の手には、個人の辿った歴史が刻まれている。その沈黙の手に触れる対話から、自我は目覚め、自身を語りはじめ、行動が羽ばたき、人生行路を作品として描くに至る。
 それは孤立状態にある精神疾患患者が、病の闇のうちに一筋の光明を見出す契機とも符合する。自らもセツルメント運動への共感から出発し、北海道は日高で浦河べてるの家を主宰してきた向谷地生良は、こう尋ねる。急性の発作を起こした精神障碍者を、自傷行為から救出するには、どんな手立てがあるか。似たような悪夢を知るひとりが、患者を「擽る」ことを思いつく。試してみると、発作は何事もなく収まった。
 思えば「擽る」とは特異な行為である。人は自分で自分を擽っても無反応だが、人に擽られると笑いが弾ける。他者と触れ合ってはじめて、自我は自らの閉じ籠った殻を破って、外へと弾ける切っ掛けを掴む。これは貴重な教訓だろう。いわゆる精神疾患は、人を底なしの孤独の蟻地獄へと誘ってゆく。そこから逃れようともがけばもがくほど、奈落へと落ちてゆく。周囲が救い出そうと努力しても、それがかえって逆効果を招く。ところが意表を突く「擽り」という関節外しが、心の牢獄の閂を思わぬ方向から抜いてしまう。
 べてるの家では、「幻覚妄想大会」が催される。幻覚や妄想に苦しんだ体験をもつ人々が、競ってその経験を話す。それが参加者の心を「擽る」のだろうか。会場は大きな笑いに包まれる。自分だけが苦しんでいる――。だが、それこそが妄想だった。心の闇が、哄笑とともに白日の下に弾ける。自分より酷い体験に笑いとともに接すると、安堵の信頼と共感が拡がる。
 ここで人は「当事者研究」という発想の転換に触れる。病院という制度は、とかく医師と患者という隷属関係を設定する。観察者と被験者という対比は、学者とその研究対象の間でも反復される。見/診る者と見/看られる者との非対称。そうした関係の固着が、人をして精神病理へと追いやる機構そのものの源であり、増幅装置かつ幽閉制度ではなかったか。
 もはや明らかだろう。受け身で診断される対象でしかなかった筈の存在が、自らを研究対象とし、自らの置かれた環境を観察する。イタリアの「脱精神病院」の運動と、日本の「職場の歴史」の運動とは、両者に共通する手法を手探りしていた。そこには「触れる」という根源的だが、能動・受動の体制を逆転・中和する中動態的な行動原理が萌している。
 主体と客体の別を立て、もっぱら視覚モデルを重視
して社会関係を構築した時代。それを近代と呼ぶならば、脱近代は、触覚の中動性を軸に、根本から再編成されねばならない。たしかに向精神薬は、脳の制御技術としては有効だろう。だがそれは心の働きをさらに抑圧する悪しき暴力になりかねない。妄想を持つ者にとって、親愛なる妄想を失うことには、手痛い喪失感、回復不能な疎外感が伴いうる。我が心に棲まう「意地悪君」を抹殺することばかりが治療の目的ではあるまい。妖精に触れつつ触れられる幸福も回復したい。リハビリとは、あるべき規範への復帰ではない。持てる能力の社会的賦活こそが、課題となる。

※松嶋健『プシコ ナウティカ――イタリア精神医療の人類学』(世界思想社、2014)。浦河べてるの家『べてるの家の「当事者研究」――浦河べてるの家』(医学書院、2005)ほか。竹村民郎編『[編集復刻版]職場の歴史』(全4巻、六花出版、今秋刊行開始予定)。現在、速報版カタログを刊行中。
 文中でお名前を列挙した皆様をはじめ、三原芳秋、古川誠氏のご配慮に謝意を表す。







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