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評者◆稲賀繁美
「意志的主体による責任」という〈虚構の必要悪〉――「中動態」から社会正義の根幹を問い直す(上)
No.3308 ・ 2017年06月24日




■「責任を取る」という。日本語で「責任を取るべきだ」というと、そこには「非を認めるべきである」との道徳的・否定的な判断が色濃く付きまとう。主体は「責任」を受動的に「負う」立場に置かれがちだ。ところが欧米語の場合「責任」とは主体が自ら積極的・肯定的に「取る」筋合のもの、とのニュアンスが濃厚である。「辞任」も同様。欧米社会では「辞任」とは受任者が任命者に対して能動的に「与える」ものであるのに対し、現在の日本語・日本社会では、「辞任」とは、やむを得ぬ状況下で当事者が受け身で蒙る「責め」ではないか。筆者は以前からこの非対称が気になってきた。事態はルース・ベネディクトの古典『菊と刀』に代表されるような「罪の文化」と「恥の文化」の対比にも遡る。だが従来この案件は、本質論的な文化比較の通俗図式に絡めとられることが頻繁だった。
 そもそも社会的な道徳規範や法律遵守の格率の下において、人はどこまで自らの意思で行動しているのか。運動競技などを考えてみよう。競技者は規則に触れない限りにおいて自由に振る舞う。自らの意志は「与えられた自由」の枠組みを尊重する限りでのみ発揮できる。この問題系を神学的に突き詰めたのがスピノザだった。古典的な解釈に従えば、この哲学者は全能の神に完全な自由を見定め、そこに人間的な社会規範からの逸脱の可能性を賭けた。それが同時代に危険思想と見做されたのも頷ける。だが現在でも戦争犯罪の司法判断や良心的兵役拒否を一瞥すれば、これが過去の神学論争に終わらぬことは明白だ。
 現今の法律体系は、意志と責任という枠組みで組み立てられる。だが「罪と罰」の枠組みで現実を裁断しようとすると、実際には割り切れない不条理や、情に忍びない理不尽が続々と出来する。「恥」も、その割り切れなさに起因する情動に与えられた「合理化」ではなかったか。「自己責任」という近年流行の概念も、社会的脱落者に「恥」の意識を植え付け、社会的制裁を自己懲罰として受け入れさせるための修辞だった。その名に値する文学作品の多くが「罪と罰」の貫徹に疑念を差し挟む営みだったことも故なしとすまい。
 法律的な係争は、とかく事態を加害者と被害者とに
分割して、正邪を弁じようとする。だが多くの事件は、法律の枠組みに掬い取られた瞬間に、遡及不可能な変質を遂げる。能動か受動かの弁別を貫徹すると、現実はいまひとつ別の図式で上塗りされる。「責任」そして「責任主体」という西欧近代に出現した法的観念も、おそらくはこれと軌を一にした装置だろう。だがそもそも世の中は、自己同一性の確立した個人を単位として、整然と進行するものだろうか。犯罪人や禁治産者あるいは精神異常者はなぜ生まれるのか。それはかれらを社会構成員から不適格と認定して隔離しなければ、社会が機能しないという浄化の強迫観念が、「健全」なる社会(という幻想)の成立条件と裏腹だからに他なるまい。

*森田亜紀『芸術の中動態――受容/制作の基層』萌書房、2013年。本著に基づき著者を囲む研究会を、筆者は国際日本文化研究センターにて組織した。特集「木村敏:臨床哲学のゆくえ」『現代思想』2016年11月臨時増刊巻頭の木村敏・森田対談も参照のこと。







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