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評者◆谷岡雅樹
こんな社会の片隅で~私も、ダニエル・ブレイク――ケン・ローチ監督『わたしは、ダニエル・ブレイク』
No.3295 ・ 2017年03月18日




■NHKの「ドキュメント72時間」という番組を毎週見ている。或る場所に三日間カメラを据える。そこに居合わせた人間は何を話してもよい。その映像を時系列に切り取る定点観測ものだ。二月第三週は「横須賀・軍艦の見える公園で」というタイトルで、いきなり九〇歳の男が登場した。「夕べも三〇分から四〇分間かけて、二五歳年下の妻とセックスをした」と唐突に語る。半ば自慢、半ば提言、いや訴えであり抗弁のようでもあった。七〇年代に学校で歌われた、『遠い世界に』(五つの赤い風船)というフォークソングがある。〈これが日本だ、私の国だ〉という歌詞が、当時小学生だった私にはやはり唐突に聞こえた。九〇歳の現役青年の主張は、不倫やフーゾクではなく妻とのセックスだ。NHKコードの限界かも知れぬが、久々に、世の中に流れる生の声を聞いた気がした。孤独の叫び。これが日本だ、いやこれが日本なのか。
 ウォークマンの登場によって、音はイヤホンで一人の人間の耳に届くのみで、音楽を聴く行為がどんどんと個々のタコ壺に向かって進み、街に歌が流れなくなった。大劇場の大スクリーンで見知らぬ隣人の皆と観た映画体験の現在は、やはりスマホ画面を通じて電車内でひとり知覚される。子どもたちと同じ車両内の老人がロリコンAVや残虐ビデオを観ていても、気がつかないし、許されないわけでもない。これが日本か。
 イギリス映画『わたしは、ダニエル・ブレイク』という。ケン・ローチ監督。名匠だ。国際映画祭でいくつも賞を獲っている。八〇歳。前作で引退表明していたが、またしても撮った作品がこれだ。現役。何が彼をそうさせるのか。彼が何をそうさせるのか。
 主演俳優は映画初出演というスタンダップ・コメディアンのデイヴ・ジョーンズだ。それほどに売れているスターではなさそうだ。日本で言えばイッセー尾形のような位置の役者であろうか。父が建具工で労働者階級の出身だという。イッセー尾形の場合は、ビルの外壁取りつけ職人をしていた。演劇や俳優で食べていけるとは信じていなかった。だけど肉体労働で疲れて帰ってくると、これでいいのかという感情がムクムク起ち上がり、演劇仲間が傍から消えていったなかで、“一人芝居”を始めた。デイヴ演じる主人公は建具工だ。職業安定所での求職者手当申請において、けんもほろろな応対をされる。ホームレスの宿泊所で二年間過ごした二人の子を抱える母ケイティが、やはり杓子定規な役所の冷たい態度に出会う。ダニエルとケイティ。惨めな者同士はしかし、簡単に共闘などしない。出来ない。それでも少しずつ歩み寄る。ユーモアと愛とで闘いを開始する。
 なぜ働く者は無知なのか。それは権力者や支配者層が巧妙だからか。それもある。それ以上に労働者側の中に、仲間のふりをした裏切り者がいるからだ。警戒心と臆病風とが吹きすさぶ。
 NHKスペシャル『見えない貧困』で、元AKB48の高橋みなみが「月二〇万と聞くとギリギリどうにか生活できるのではないかと思うんですけど」と発言している。彼女の収入がいくらか推量出来るが、他人に関して高橋は、自らと乖離した金額を要求するわけだ。このぐらいで生活できるだろうと高をくくる。それは高橋の隣にいるNHKのアナウンサーにしても同じだ。「われわれの税金」などと庶民面するが、自分に矛先が向かないように、体よく(お上に対する)市民仲間を装うだけで、実際には、月収一〇〇万の者が、二〇万円で生活しろと突き付けてくる。敵は隣人にあり。「首相が」「政府が」という声を発する者の中にこそ、問題の根源主がいたりする。月二〇万での奴隷を支持する。
 昨年NHKのニュース7で取り上げられた、母と二人暮らしの「経済的に困窮する」女子高生に対し、映像中の部屋に「アニメグッズやエアコンが映った」として批判が起きた。“貧乏人らしくない”と。ツイッターでは「ライブに行っている」「千円以上のランチを食べている」と生活の全てがバッシング対象となり、自民党の片山さつき参議院議員もこの騒動に加担した。普通以下の暮らしぶりを精査され監視される生活が「保護」なのか。保護しないならば、それは国ではない。貧困から国民を守る存在であるからこそ、国というのではないか。片山さつきは、ほんとうに国会議員なのか。
 真偽は分からないが、引退宣言の清水富美加が月三一日労働で月給五万円だと言ったら、そのぐらい我慢しろと同じ芸能人からさえも叩かれる。既に同事務所を離脱した能年玲奈も五万円と言っているから、五万円という労働基準法無視の月給制が、この芸能事務所には存在したのかも知れず、ならば、バッシング以前に違法行為だ。お役所の冷血漢でなくとも、一般の庶民自身が、隣のより弱い者を叩くスパイラルに嵌め込まれている。セーフティネットが機能しないばかりか、機能しないよう後押しするバカを大量に生産し続ける仕組みを自らが喜んで享受し、同胞の首を絞め、足を引っ張る元凶となっている。
 失業の一番の原因は求人不足、援助不足であるけれど、それ以上に生きづらさを強いているのは、隣人の愛や理解の不足による。貧困は空腹を生むが、絶望は屈辱から始まる。
 貧困のもとは、法律と教育の中に存在する。制度で縛り、世間や空気で洗脳する。これを打ち破るには、少々手荒な手法が必要だ。映画はいつも抵抗のやり口や別のアウトローな生きざまを提示してきた。今の日本には、権力に毒を吐く気概、というよりも物を作る人間として当然の抜け駆けの思想を主張する者がほとんどいない。どうにかして支配階級の仲間入りを果たそうとあくせくする寄らば大樹の陰のコソ泥ばかりだ。
主人公ダニエルは、横暴な制度に律儀に対応し、正当に抗議し、暴力を用いず、しかし闘いを開始する。ケイティの場合は、困った挙句、万引きをする。さらには身体を売る。人間には悪の萌芽、弱い部分が誰にもある。それが表出せずに済むのは、裕福だったり運がよかったりする場合である。しかし、ケイティにとっての人生はそうではなかった。NHKアナウンサーや高橋みなみにはなれなかった。エアコンが部屋にあると騒ぐ視聴者の期待に応える「かたち」になってしまった。しかしスコセッシの“サイレンス”は残っているはずだ。二人ともに、もがきながらも同じように必死に生き、生き抜こうとしている。
 フジテレビ「ザ・ノンフィクション」に三八歳で地下アイドルデビューという“痛い”人が登場した。借金四五〇万円。解体現場で働き、日当は七〇〇〇円から五〇〇〇円に減らされた。風呂なしの部屋では、たらいに水を漲って行水。食事は家畜の餌用のくず米。その彼女(男)がお金に困り、やはりゲイ相手のフーゾク“ニューハーフ・ヘルス”の面接に行く。落ちてしまう。貧すれば鈍する。だけど誰も彼女を責められない。
 ケイティの場合は、フーゾクに合格し、晴れて勤務する。ダニエルが職場に現れる。「こんな場所にいてはいけない」。責めているわけじゃない。ケイティは懇願する。あなたとは会いたくない。これきりにしてくれ。「やさしくしないで。心が折れるから」。300ポンド貰って子供に靴を買えるのよ。ダニエルは佇む。人には追い風が必要なんだ。俳優高倉健が生前、「あまりきつい風にばかり当たっていると、人にやさしくすることが出来なくなる」と語っていた。「だから、きつい風を除けなければいけないんだ」と。
 ダニエルは、どんなに避けられても、彼女を放ってはおかない。ダニエルはまだ五九歳だが、決してケイティを性の対象として見る邪な感情が表には見えない。今、テレビで七〇年代の赤いシリーズが再放送されている。育ての父親役の宇津井健は、義理の娘役の山口百恵に対して、全く色欲では見ない。当時は当たり前であったが、今のドラマではそれが成立するであろうか。実は成立している。それが赤いシリーズに出ていた三浦友和が今まさに、「就活家族」というドラマで主演し、社内不倫騒動に毅然とした態度で臨んでいる姿が、ウソのないかたちで視聴者に気位を訴えている。私は、今の世の中捨てたものではないと、宇津井健の遺伝子を継いだ三浦友和を前に感じ入っているし、このダニエルを観てそう確信している。ケン・ローチが訴えたかったことの一つは、間違いなくこの清新さであり、それは作家としての矜恃だ。八〇歳にして怒れる作家であると同時に、やはり死の近い人間でもある。官僚の残忍さに抵抗し、少しでも世の中を動かしたいと思っている。
 主人公はまず、「私はダニエル・ブレイクだ」と名を名乗る。私は怠け者ではない。一人の市民だ。それ以上でも以下でもない。もう正当な方法は放棄する。偉い奴に媚びない。ケイティに対しても「君は悪くないんだ」と伝える。結局は、究極は、死を賭けての闘いとなる。二人ともに弱いが、弱い者がさらに弱い者を助ける。自分の暮らしもままならないのに、一方が一方を、さらに一方が一方を助け合う。貧しい者に直接響く緊縮財政が英国の貧困をもたらしたという。かつて難民の母と言われた犬養道子は、迷う。「目の前のこの娘一人を救っても何にも解決しない」。だけど、この娘を救いたい。ダニエルも、ケイティも結局は、ケイティに、ダニエルに、手を差し伸べた。
 人生は変えられる。隣の誰か一人を助けるだけで変わる。誰かを支え、誰かに寄り添い、誰かとともに過ごす。失業保険受給者制裁措置を受けた人の五人に一人がホームレスになっているという調査結果を受け、労働党の党首ジェレミー・コービンは、英国下院議会で、「メイ首相はこの映画を観るべきだ」と発言した。もっと言うと、隣の傍観者である私やあなたが観るべきである。社会を構成するのは人間で、隣同士の風が社会を温めもする。社会は冷たいが、隣にいる人間こそが温かければ、生きていける。ダニエル・ブレイクは私だと思ったなら、やることは決まっている。叩くな。誰かを助け、私を解放するのだ。
 無数のダニエルに、この文章を捧ぐ。
(Vシネ批評)







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