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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻33
No.3295 ・ 2017年03月18日
■歴史的政権交代選挙に関わる⑤
井筒高雄が盟友の井奥雅樹と共に関わることになった兵庫8区の「ヤッシー選挙」は、神輿の田中康夫がマスコミに仕掛けた、“小沢一郎相乗り作戦”が効を奏して、「空中戦」としては華々しいスタートを切った。しかし、主戦場となる足元・尼崎の「戦闘態勢」は何とも心もとない状況にあった。 17日に東京で出馬宣言はなされたものの、選挙体制はさっぱり整わず、井筒と井奥を大いに戸惑わせた。田中が代表をつとめる新党日本は、弱小とはいえ、小選挙区とブロック比例に合計6名の候補を擁立することになるれっきとした全国政党である。したがって、「政党本部」としてしかるべき指示を出し段取りをとるべきところなのに、前述したように、田中の出馬をめぐって側近で事務局長格の平山誠が「除名」され、事実上、東京の党機能が麻痺してしまったことが、体制が整わない大きな要因だった。 いったい平山に代わって誰が選挙実務の総指揮をとるのか、井筒たちは注目していたが、19日の地元の会議では、田中の性格から予想されたとおり、田中自身が現場の指揮も執ると宣言。党首として地元に居続けるわけにはいかないのに大丈夫かと不安は募ったが、井筒たちはその「下知」に従うことにした。この選挙は良くも悪くも「ワンマン田中」で始まったこと、仮に「合議制」を提案したところで本人は認めないだろうし、もし口先で認めても事あるごとにそれを無視して混乱をきたすにきまっている。だったら本人の好きにさせたほうが、結果はどうあれ、「上策」だと判断したからだった。 衆議院が解散される7月21日という選挙にとっては最初の節目にむけて、最低限の準備が急がれていたが、いまだに事務所もきまっていなかった。 その後、事務所は地元選出の県議の丸尾牧の協力を得て確保することができたが、保証金など相当額の金が必要なため、当然ながら田中がそれを用立てた。しかし、それが後に井筒と井奥の「市民派選挙お助けコンビ」にとんでもない厄災をもたらすネタの一つにされることになろうとは、その時二人は知る由もなかった。 地元での出馬宣言もまだできていない。そもそも出馬宣言が遠い東京でなされたこと自体が、空中戦主導の選挙戦を企図していた田中の「地元軽視」と思われかねなかった。 衆院解散の当日を迎えても、尼崎の田中選対はバタバタと対応に追われていた。この日の午後、麻生首相の解散宣言を受けると、全国300の小選挙区では、「すわ鎌倉」とばかり現職は国元へ飛んで帰って鬨の声を挙げ、この日を待っていた新人たちは隊列を整えてそれを迎え撃った。かくして全国都々浦々の市町村では、一気に戦闘モードに突入した。ところが、ここ兵庫8区では、現職の冬柴鐵三が前年末から金帰月来して支援者を固め、準備万端を整えた盤石の選挙戦をスタートさせたのに対して、新人でしかも落下傘の田中陣営はとてもそれを迎え撃てるような体制にはなかった。 たとえば空中戦の要である街宣車の看板を東京の党本部事務局に依頼していたのにやっておらず、急遽1日、2日の突貫工事で間に合わせたり、ポスター貼りの段取りもできておらず、さらには宛名の印刷に数日はかかる選挙はがきも本番直前にできあがるといった有様だった。 そしてなによりも、要員が圧倒的に不足していた。こちらは連合兵庫が社民党候補の応援にまわり、地元の民主党も党中央から候補を一方的に押し付けられたとの思いから日和見を決め込んだことで、人的な支援が期待できないことが原因していた。 なんとか選挙事務所を確保して立ち上げた当初は、実働部隊はせいぜい10人程度で、とても国政選挙を戦える陣容ではなかった。 そんなこんなで、ようやく地元での正式出馬会見がコラムニストの勝谷誠彦を応援弁士に呼んで行なわれたのは、解散から数日たってからだった。立ち遅れは明らかで、それが早急に改善されるとは井筒たちにはとても思えなかった。 さながら“敵方”の冬柴軍は、7期連続当選の間に威風堂々たる城を築き上げ、ヒトもモノもカネも潤沢にある大大名の堅固な護りの戦いを粛々と推し進めていたのに対し、井筒と井奥が押っ取り刀で馳せ参じた田中軍は安普請の一夜城を築いて、そこから奇襲をかけるという作戦であった。しかし、その一夜城ですらまだ普請途上で、槍や鉄砲にあたるチラシやパンフレットなどの紙礫も、旗指物にあたるポスターも辛うじて出来上がりつつあったものの、それを配ったり貼りに行く「兵隊」がいない。しかも総大将は江戸と尼崎を往復。総大将が不在の間は戦さらしい戦さは組めないという惨憺たる状態であった。 最後まで付きあおうと意思一致した井筒と井奥だったが、これにはさすがに気持ちが萎えかけた。しかし、相棒の井奥によれば、それでも井筒が持ち前の「火事場の糞力」を発揮して踏ん張ったことが大きかったという。 井筒は、街宣活動ができる朝は8時から街宣車に乗りっぱなしで選挙区内をくまなくまわって支持をうったえ、夜8時に帰ってくるとスタッフと反省会をし、それを終えるや翌日にむけて車の整備とビラ配布の人員の手配などに余念がない。傍からみると神か鬼の業にみえたが、当人の井筒からすると、自衛隊時代のレンジャー訓練を思えば「楽勝」であった。 井筒の一人何役もこなす大車輪の踏ん張りようは、総大将の田中にも「覚え」がめでたく、それが田中と井筒の距離を一気に縮めて、少なくとも井筒が担当する空中戦はうまくまわるようになった。 (本文敬称略) (つづく) |
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