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評者◆秋竜山
天城峠に踊子はいたのか、の巻
No.3291 ・ 2017年02月18日
■沖浦和光『旅芸人のいた風景――遍歴・流浪・渡世』(河出文庫、本体七四〇円)では、川端康成の「伊豆の踊子」にふれている。
〈この小説は、一九二六(大正十五年)に「文芸時代」に発表された。川端康成はその八年前に、十九歳で初めて伊豆を旅した。そのとき、たまたま旅芸人一座と道連れになった。その旅から四年後に「湯ヶ島の思い出」を書いた。未発表の草稿だったが、その中から旅芸人にまつわる実話を抜き出して創作に仕立てたのが「伊豆の踊子」である。〉(本書より) 国民的な小説である。国民的小説というのは、あまり読まれてはいないが読まなくても知っている小説ということだ。有名であるとは、そーいうことである。その理由としては、学校の教科書でとり上げられていたからだと思う。たいがいの人が語る時は、映画化された作品を頭の中に浮かべていると思う。踊り子役は、その時代のアイドル女優などが演じ話題になった。吉永小百合とか、美空ひばりとか他にも記憶に残る踊り子たちである。私がそれ以上に想い入れがあったのは、「伊豆の踊子」の舞台が、「伊豆」であったということであった。伊豆に生まれ育った私は、作品に出てくる舞台で生活していた。よく、天城峠を歩いていると、踊り子に出あったりするか、きかれたりしたものであった。私は、この「伊豆の踊子」作品を好きでありながら好きではないという感情を持っている。不ユカイな作品ともいえるかも知れない。映画の場合は、場面がストレートのため不ゆかい感がつのった。 〈この五人連れの旅芸人は、伊豆の大島に家があって、季節を定めて伊豆半島の温泉場を流し歩いているのだ。〉(本書より) 作品のストーリーがそうだからそのような伊豆の人たちを表現しなくてはならないのかと、自分にいいきかせたりした。 〈道がつづら折りになって天城峠にさしかかったとき、急に降り出した大粒の雨を避けるために茶店に飛び込んだ。修善寺の近くで出会った五人連れの流しの一座が、その店で休んでいた。茶店の婆さんは、卑い風体の芸人一座と同席しないように、わざわざ奥の居間へ招き入れてくれた。一座の十七歳くらいに見える踊子に気を惹かれていた主人公は、店先から聞こえてくる彼らの話し声に耳を傾けていた。店を出るときに、「あの芸人は今夜どこで泊まるんでしょう」と婆さんに訊いた。「あんな者、どこで泊まるやら分かるものでございますか、旦那様。お客があればあり次第、どこにだって泊まるんでございますよ。今夜の宿のあてなんぞございますものか」〉(本書より) この場面を映画で観た時は、こんな人が伊豆にいたなど、抗議したくなる思いであった。その前に、お袋と話したことがあったが、ある日、ものごいに「すみませんが、縁側で休ませてください」といわれ、お袋は「どーぞ」と、いってお茶を出した。そして、お袋はビックリしたといった。その、ものごいさんが縁側でチャリンチャリンとさせながら、村中をまわってめぐんでもらってきた金銭のかんじょうをしはじめたというのであった。お袋は笑ってしまったといった。私が子供の頃は、そんな時代であった。伊豆にも、さまざまな人たちがいた。それが世の中というものだ!! で、すませてしまえばいいだろう。 |
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