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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻30
No.3290 ・ 2017年02月11日
■歴史的政権交代選挙に関わる②
歴史的な総選挙が遅くとも2、3か月先に迫るなか、井筒高雄と盟友の高砂市議・井奥雅樹の「市民派選挙お助けコンビ」にお呼びがかかった。ところは、二人の地元の兵庫10区ではなく、大阪府に隣接する尼崎市を全域とした兵庫8区。声をかけてきたのは、新党日本の事務局長格の平山誠であった。そして、肝腎要の候補者の名を知らされて、二人は正直、驚いた。 なんと同党の代表の、「ヤッシー」ことあの田中康夫だというのである。 2000年、鳴り物入りで長野県知事となり、当初は「脱ダム宣言」や入札制度改革、老人のデイサービスと乳幼児保育を合わせた「託幼老所」など先進的な政策で、県民から圧倒的な支持を得たが、一方で県庁まで往復7時間の山間の村に住民票を移して通勤したり、知事を兼職しながら新党日本を立ち上げて代表に収まるなど「奇矯な行動」も目立ち、6年後には「鳴りやまぬ目覚まし時計をとめよう」と、長野県民から愛想をつかされ知事の座を追われると、2007年、新党日本から参議院全国比例に出馬、大方の下馬評を裏切り約46万票もの個人票を獲得して当選した、あの「ヤッシー」である。 しかし、井筒と井奥が驚いたのは、田中が話題満載で世間的にも評価が大きく分かれる人物だからではない。参議院に当選してまだ任期を4年以上も残している。一方、兵庫8区は前述したように自公協力の牙城であり、当選はきわめて難しく、仮に善戦惜敗しても新党日本のような弱小政党では近畿ブロックでの比例復活はまず望めない。にもかかわらず、あの目立ちたがりのヤッシーがせっかく手に入れた議員バッジを捨てる気になったことに、驚いたのである。そして、驚くと共に、「よし、これはひょっとしたらいけるかもしれないぞ」と直感したのだった。 というのも、2004年に辻元清美が出馬した参院選挙大阪選挙区に馳せ参じた折りに、応援にかけつけた田中の印象が実に鮮烈だったからである。当初は、「市民派選挙お助けコンビ」からすると、まるでお通夜のような状態だった。 辻元は秘書給与疑惑で有罪判決を受け、執行猶予期間中であるにもかかわらずあえて出馬したことで、周囲からは批判もあった。そのため、おそらく当人にも「リハビリ」で出たという気持ちが心中のどこかにあったのだろう、それが演説にも振る舞いにも表われていた。それまでの「ソーリ、ソーリ」と時の首相を追及する「切れのよさ」がまったく見られない。井筒と井奥は、これでは選挙にならない、リハビリどころか、辻元は惨敗して立ち直り不能になってしまう、なんとか状況を切り替えられないものかと知恵をしぼり策を練っているところへ、たまたま田中康夫が応援に入ってくれた。すると、田中の演説で、辻元の演説はもとより表情までがガラリと切り替わり、「ソーリ、ソーリ」のあの「清美節」が戻ってきたのである。おかげで、辻元はわずか1万7千票の差で、定数3の4位と次点には泣いたものの、約72万票という落選候補者としては全国最高得票を獲得、それが翌年の衆議院選挙(大阪10区)での復活へとつながるのである。 このとき選挙の現場でまざまざとみせつけられた、田中の演説の迫力とそれによって人を変える威力は、以来、井筒と井奥の語り草になった。そんな得がたい選挙の現場体験から、「市民派選挙お助けコンビ」は、平山の誘いに前向きに乗ろうと決意したのだった。 ところが、実はそれからは山あり谷あり難所ありの大変な道程になるのだが、それを物語る前に当時の総選挙をめぐる政局の流れについておさらいをしておこう。 * 前年の2008年に突如解散風が吹き起こり、各党とも選挙モードに突入したが、年末前にパタッと吹き止み、多くの候補者はいったん選挙区に構えた事務所をたたむ。それが年が改まって春を過ぎたあたりから、またぞろ解散風が吹きはじめる。 皮肉なことに、それを促したのは野党の攻勢ではなく、自民党内部の郵政民営化の実施をめぐる内輪もめ、すなわち郵政民営化の見直しともとれる首相発言(当時所管の総務大臣だった麻生首相が「最初は賛成ではなかった」)に端を発した、「麻生おろし」をめぐる攻防であった。そこから吹き起こった解散風についてエポックとなる事象を当時の朝日新聞の記事(いずれも日付は朝刊掲載日で発言は前日)の見出しから拾うと、こんな具合であった。 5月2日 小泉元首相「もう追い込まれ解散しかない」(9月の任期満了近くにずれこむ) 5月8日 山崎拓元自民党幹事長「株価1万円回復で解散も」(日経平均が9千円台を回復したのをうけて、解散近し、遅くても8月9日と予測) 5月10日 北側公明党幹事長「都議選(7月21日)以降に期待。実績づくり優先、民主の本格回復警戒」 5月22日 自民麻生派の中馬弘毅「総選挙はサミット後(7月8日)」 6月3日 古賀誠自民選対委員長「10月総選挙も(臨時国会を召集して本来の任期よりも引き延ばせると示唆)」 6月5日 菅自民選対副委員長「任期満了の9月10日までに(やるのが望ましい、と前掲古賀発言を否定)」 ここまでくると、前年末のように解散風を封じ込めるのはもはや無理に思えた。 そんな中で、井筒と井奥の「市民派選挙お助けコンビ」に、平山から誘いがかかったのだが、この時点では、各党とも完全に選挙モードに突入しており、全国300選挙区のほとんど(朝日新聞1月1日付け朝刊によれば「決戦へ290区超固まる」)で、与野党の候補者もほぼ出そろっていた。しかしながら、ここ兵庫8区だけは、年頭に朝日新聞が予想した「顔ぶれと情勢」と変わっていなかった。すなわち、予定候補者は、 冬柴鐵三(72)公明現職 元国土交通相 庄本悦子(54)共産新人 党地区副委員長 市来伴子(31)社民新人 ホームページ制作会社社長 ここには、もちろん田中康夫の「田」の字もない。そして、選挙区の情勢も、それにつけられた以下のコメントと変わっていなかった。 「公明は冬柴の議席死守に全力を注ぐ。かつて共闘していた連合が前回、全選挙区で民主候補を推薦して関係が完全に崩壊。自民との連携が機能するかがかぎを握る。一方、民主は(略)党本部主導で候補者選定が進んでおり、注目が集まる」(同紙1月1日付け朝刊) そんななか、いよいよ井筒と井奥の「市民派選挙お助けコンビ」に「選挙実務部隊」として招集がかかる。今度は事務局の平山誠ではなく、田中康夫本人からであった。そして、それからわずか数週間で、麻生太郎内閣総理大臣がついに解散を決意するのである。 (本文敬称略) (つづく) |
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