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評者◆谷岡雅樹
やくざは焦土に現れる――小林聖太郎監督『破門 ふたりのヤクビョーガミ』
No.3288 ・ 2017年01月28日




■19、26、35、40、41、43、46、49、55、60、65、66、67、70。
 以上の数字が何か分かるだろうか。年の世相を漢字一文字で表す「今年の漢字」二〇一六年は「金」だった。二位以下一〇位までの漢字は選、変、震、驚、米、輪、不、倫、乱だ。避けられている。本当は圧倒的に「障」ではなかったか。もちろん相模原市津久井やまゆり園の事件が直接に浮かぶが、芸能人叩きからいじめ、パワハラ、難民、米大統領選まで皆、身体に障り、仕事に障り、利益に差し障りのある者(障害や不都合)を無視し排除する運動だった。19から70は、名前の公表されない殺された一九人の障害者の年齢だ。名前がないから数字で呼ぶしかない。これはいじめや迫害の常套手段だ。名前を失くすことで、人間ではない存在に仕向けていく。不倫芸能人は消され、付き合いがあるとNHK紅白には出られず、スポーツ選手もプロでいられない。映画の中のやくざは予定調和化し、耳の痛い話も自由な魂も潰される。愛が悲鳴を上げ、悪意が百鬼、昼夜を通して席巻する。どうしたら人間を回復できるのか。
 七〇年代後半までカウンターカルチャーの真っ只中に、日本ではやくざ映画が象徴的存在として君臨していた。ロマンポルノはその亜流だ。フェミニズムに結びつける人がいるが、真逆の思想だ。ロマンポルノ礼賛は、「男と女はあれしかないんよ」(『四畳半襖の裏張り』)という悪魔の囁きに屈するしかないインテリ文化のもう一つの視点(営業戦略)にすぎない。悪いけど、「あれ」で終わりじゃない。では、なぜやくざ映画だったのか。
 ズバリ、一番困っている奴の頼りになったからだ。障害を障害とせず、困難を困難としない「道を外れた」人間だった。外道とも言う。何を今さらというかもしれない。谷岡のVシネマ論のおさらいをまた宣うつもりか。そうではない。あの時(二〇世紀の終わり)とは状況が違う。警察にも見放され、親友にも裏切られ、四面楚歌となって、連帯もなく自ら起ち上がり闘うしかない者たちが自ら命を落としていく。それは、ブラックな資本側と虐げられる労働者とが一線を境に勝ち組負け組として分かれ、権力を媒介にパージされているというかつての問題ではなくなっている。権力とは別の暴力を持つゲリラがヌエのように、人間の弱い部分に向かって命を食い尽くす貧肉弱食の時代だからだ。この時、とばっちりを恐れ、知らぬ存ぜぬを決め込む姿の陰で、実は新たなやくざの登場を待望している。それは、悪を退治するヒーローではない。自らも悪を抱える価値の共有であり煉獄だ。
 任侠すなわち勧善懲悪は、現実に存在しないからこそ娯楽の面目躍如という見方があ
るが、現実以上のリアルがなければ成立せず、逆に我が身の正義や正当性が問われる。声なき声をすくい取るのがジャーナリストの使命だと斎藤茂男や本多勝一が語っていた時代、映画もまたマイノリティーに寄り添う懐があって、闘っていた。既に大手新聞社やテレビ局が「ジャーナリストの意志」をぶち壊すような媚びや堕落に塗れた現在、映画はテレビ以下に成り下がり、媚びた相手の大衆からも見放されてしまった。フルトヴェングラーは、音楽とは演奏家と聴衆の二者で作るものだと言っていたが、観客が一緒になんとか育てていた時代が七〇年代の日本映画には在った。一般の監視の目が鋭ければ、権力濫用を阻む力を持てる。その芽を育てるのも映画だった。今や一般の目は香里奈やSMAPやベッキーにしか行かない。或いはそう向けさせられている。ポップカルチャーは体制への批判勢力たり得ず、かつて大衆運動を支えた労働運動、左派勢力は骨抜きになっている。
 二一世紀は作家も不在、聴衆も不在。せめて小さい映画は、資本の論理からすり抜けたところで自分勝手に作りたいものが作れるのかと言ったら、半径二メートルの映画しか作れない。本作は、そこにやっと飛び込んできた痛快作だった。観逃すところだった。
『破
門』という。まるでやくざ映画かVシネマのタイトルだが原作が直木賞受賞で、微塵もその手の安いパッケージではない。キーワードはやくざと大阪だ。
 本来一般市民は、警察や見てくれのよい会社に安全を頼む。だが綺麗事にそっぽを向かれ、建前に見捨てられ、最後に振り向いてくれたのが、やくざ(のうちの一人)だった。一番きつい奴の傍にいてくれて、一番弱い奴の声を聴いてもらえた。それが七〇年代までのマイノリティーに依拠する方法論だった。世界的に映画が警察よりもマフィアやアウトロー、警察ならば破天荒な食み出し刑事を描くのは、国やその他の大きな物語では、個人の自由は機能しないからだ。上から押し付けられる常識やルールはいかにも
ウソ臭いからだ。「お母さんの言うことを聞いて手術すれば治る」と言われても、「嫌だよ、お母さん助けて」と手術室に入るまで怒号のような大きな泣き声を発し続けていた小学生のドキュメンタリー番組を覚えている。その子は亡くなるのだが、母の言葉の裏付けは権威なのか常識だったのか。小学生の言葉の方が確かだった。手術すれば助かるなんて嘘だということを知っていた。だけど無視された。自分の身体の手術の権利を自分が持てない。母も国家もクソ喰らえ。あんたの自由でいいんだ。それが七〇年代までのやくざ映画だった。
 なぜやくざの役をやるのかと言えば、日本の役者は男なら軍人、女は娼婦をやれば皆「絵になる」と言った(やくざ映画嫌いの)大島渚の皮肉に沿うわけではなく、俳優小沢昭一の次の言葉による。「クロウトというのは、芸の巧拙や腕前や年期のことを言うのではない。それは被差別的な芸能者の血であり“芸をやらざるを得ない”ことから居直って、“芸を刃に遊ぶ”芸人暮らしのことだ」。
 俳優の池部良に何度か会う機会があった。『昭和残侠伝』の話になって、私がやくざ映画論を展開したら、彼はすかさず呟く。「オレはやくざなんて演った事は一度もねえよ」。会話が途切れた。風間重吉だった。これこそやくざだと思った。監督なら今、皆佐々木蔵之介でやくざ映画を撮りたいはずだ。跳ねている。『悪名』シリーズの田宮二郎や『チ・ン・ピ・ラ』の柴田恭兵、『鉄砲玉ぴゅ~』の哀川翔のように飛んでスキップし、もうすぐ四九歳にして蔵之介跳ねている。蔵之介をイメージの奴隷にすることなく、一からキャラクターを作り上げ育てていく手法の監督小林聖太郎は、娯楽を大切にしている。上岡龍太郎の息子ということだ。芸能への慈愛が既に備わっているのだろう。
 この映画、初めは観に行く気がしなかった。主演が佐々木蔵之介で、相手役が横山裕で、いかにも想像がついた。ところが全然違った。
 周囲には、私も含めてやくざ映画のやくざ役に厳しい連中がいて、やくざを演じる俳優の良し悪しを始終語っている。本物か偽物か。不良体験の濃淡が問題ではない。実際には窓ふき係でしかなかった鶴田浩二こそが最も特攻隊員を相応しく演じ、不良の傍で不良に成れなかった島田紳助が最大の不良芸能人だったように、その憧れの強烈さと、それ以上に不良とやくざの暴力を超える理屈が身に沁みて存在するというその一点に尽きる。それは役者の原理であり培ったルールの厳しさとしか言いようがない。蔵之介にはその引き出しが不断にある。
 高校一年の時に『帰らざる日々』を観た。主人公に渡世の厳しさを教えるやくざ者の役で中村敦夫が出てきた。木枯らし紋次郎としては合格でも、東映ヤクザの本流から著しく外れた“ズレ”に、名匠藤田敏八でも日活映画の異質が許せなかった。お前じゃないんだよなあ。近年も、『アウトレイジ』の加瀬亮など違和感を拭えない。当たり前の遠藤憲一や竹内力がアイコンとして登場することはある。テレビ版の「破門」は北村一輝だ。そういう予定調和以外はもうやくざが現れることはないんだろうなあ。そう思っていた。ところが貧困やVシネマの匂いなどこれっぽっちも感じさせない育ちのよいイケメンが、人間の裏側を表から真っすぐに見せる。それが『破門』の蔵之介だった。驚いた。
 笠原和男は、〈狂犬のように命知らずで暴れまわるやくざは、たいがい良家の出で、さして腕力もない優男であることが多い。〉(『破滅の美学』幻冬舎アウトロー文庫)と書いているが、これは『仁義なき戦い 広島死闘篇』の北大路欣也を擁護するための便法にしか読めなかった。松田優作も、(ジェームズ・キャグニーを模してだろうが)ポール牧を悪役に使って、喜劇人の怖さを説いたが、どこか違った。ところが蔵之介は堂々たるヒットキャストであった。横山裕は関ジャニ∞の中で、他のメンバーとの差異を出そうと滑り、それが妙な異化効果を発揮し浮いているイメージがあった。余計な演技をやるのだろうと思っていたら、そうではない、耐えていた。
 そして大阪弁。二一から二三歳まで私は大阪の被差別部落地域に住んでいた。出身が北海道だから、逆に大阪臭い声や顔というものを異常なほど意識した。『破門』は橋本マナミを除きオール関西人だ。橋本はいかにもVシネマ業界人が関東から連れてくるイイ女系の役柄で理に適っている。ホステス役をホステスが演っても一番いいわけじゃないように、大阪人だから大阪人を演じるのがいいわけじゃない。出演者の皆、生まれは関西でも、東京に出ていき活躍して一回りして、トラックの周回過ぎてのスタート地点である。そこがよい。キャストの全員が愛おしく、綺麗でカッコよい。脚本の真辺克彦も大阪だ。単に男気や粋、大胆で勇気ある行動を描くわけではなく、興奮の孕む危険を昇華して周回過ぎての姿まで書き込んでいる。大阪ラプソディーに陥ることのない普遍的な感動がある。大衆エンターテインメント凋落の中、逸材はいる。カウンターカルチャーの衰退で生きる気力まで失われてはいけない。出合い頭にぶつかったやくざ。蔵之介に進路を取れ。最高級の気品だ。
(Vシネ批評)







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