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評者◆谷岡雅樹
夢~拷問社会での選択 ヤン・ウソク監督『弁護人』、佐々部清監督『種まく旅人~夢のつぎ木~』
No.3280 ・ 2016年11月26日




■表現者が勇気らしきものを発揮できるとしたら、それは人の無念を背負って生きているからだ。逆に発揮しなければ表現者ではない。観る者が正義に期待するのを忘れてしまった時代であるからこそ、現れる。まずは、よその国の話からさせてもらう。
 『弁護人』という韓国映画が一一月から日本でも公開されている。桁外れの感動作だ。のちに大統領となる一介の弁護士のサクセスストーリーでもある。問題点を挙げる気になれば幾つも指摘できるだろうが、映画とはそのように鑑賞するものではない。問題点の指摘行為自体を圧倒するものだ。泣かせる。泣いてしまう。日本の映画でも昔なら、こういった作品はいくつもあった。個の悲劇と共同体の悲劇とが擦れ合い共振する。
 今の日本で、「国民映画」というようなものは、アニメーションか怪獣物だ。『弁護人』は堂々たる大作で、しかも地味な法廷物の人間ドラマで、派手なアクションなどなく、人口六〇〇〇万の韓国で、一一〇〇万人が観たという。
 羨ましいのだ。主演のソン・ガンホは、最高の演技をすることもそうだが、娯楽の奔流を背負っている凄みがある。こういった俳優を今の日本で探すと、渡辺謙、役所広司、真田広之、佐藤浩市……。いずれも弱い。昔なら、いくらでも名前を挙げられた。私が劇場に通い始めた頃からでも、片岡千恵蔵、三船敏郎に始まって、高倉健、渥美清に至るまで、会社ごと、ジャンルごとを背負って立つ。オールスターキャストのど真ん中を何の見劣りもなく現れる俳優。時代の証言者として時代が動く中心地帯の中心地点で主演を張る。では韓国と、昔の彼らと、今の日本とは、一体何が違うのか。「俳優」自体を長くやり過ぎなのだ。生活をしていない。かつては戦時体験も含めて、人間が俳優をやっていた。人間としての本当の生活は、今や、普通に働く者でさえ乏しくなってきている。いや、普通に働く者は沢山いるが、その人間たちは、映画を観にいくだけの時間も余裕も共にない。
 日本で今、何が起こっているのか。お笑い芸人や歌手の流入による俳優ダンピングもそうだが、映画自体が作品としてではなく、ゴシップとして、製作行為自体が感動ポルノならぬ、映画ポルノとして消費される。結果としての作品は、遂に観られない。
 二階堂ふみがテレビドラマ初主演した「がっぱ先生」は視聴率が悪く、映画には沢山出演していても、テレビでの知名度がなく、それゆえの失敗だったという。失敗とは視聴率のことなのか。二階堂が出たどの映画よりもよい最高傑作だった。『日刊サイゾー』の田中七男は〈二階堂に主役はまだ無理〉と書いている。政治を批判し政治家を降ろしても、政治家をつくったり育てたりはしない国民。テレビドラマさえ見る時間がない。行き場のない遣りきれない青春を描く映画は「邦画村」という身内の観客だけが頼り。しかし暗く敗北するニューシネマではない形で、希望を描くなら、今は一体何をすべきなのか。
 強姦事件と騒がれ、撮影中の高畑裕太を守れなかった映画製作チーム。映画環境が、昔の東映のような「興行」に強い人間がおらず、「裏社会」に通じた人物が薄く、芸能の闇に付け入る人間にまんまと負けた。映画は絵空事でありながら、間違いなく現実とシンクロし、俳優ではなく、生の人間が画面に現れるからだ。
もし今の日本で『弁護人』を撮ろうとするなら、相当の覚悟と土性っ骨が必要だ。なぜか。昔よりも暴力社会が巧妙で、上流階級がさっぱり芸術などに資金を提供しなくても、オレオレ詐欺などの反社会グループが、全体として資本の流れを皮肉にも変革している時代だからだ。『闇金ウシジマくん』シリーズは、Vシネマ的題材を上手くお茶の間の深夜に持ち込んで、「ザ・ムービー」方式で市民権を得て成功している。こういった傾向の作品であれば、ドキュメントがアンチを突き上げるのと同様に、「製作過程」として成立する。
 正しい理想論をぶち上げるよりは、それが通用しないでむしろ悪が蔓延り、大きな組織に対する無力感を取り上げれば、その方が楽である。
 一方ドキュメントも、とにかく「壊せ、変革せよ」と、声高に叫んで、在野の草の根の闘いを取り上げて、変わることなどないのを了解しながら、ポーズの涙で怒りを表明する。または「こっちはこっちで勝手にやってます」を撮る。その方法論もこれまた楽である。
 しかし第三の道として、そのどちらでもなく、あくまで正攻法で「相手と接触」し、どうしたら、敵の巨大で巧妙な仕組みを崩せるかのゲリラ戦は、そう簡単ではない。
 日本では数少ないその監督はもちろん山田洋次だ。山田の『学校Ⅲ』には、四五歳を過ぎて解雇を言い渡され、障害児を抱えるシングルマザー大竹しのぶが主人公として登場する。働く場所を見失った彼女は、ハローワークで、こう言う。
 「私はもう若くはないし、見てくれの良い仕事をしたいなんて思ってません。息子と二人で生活していけるだけの賃金さえもらえれば少々つらい仕事でも構わないんです」
 必死なのだ。背に腹は代えられぬギリギリの闘いと葛藤が、作家の叫びとして身につまされた傷痕として迫ってくる。
 『弁護人』で、息子を不当逮捕され、無実の罪を着せられ、拷問の果て、ウソをつかされ、仲間を売らされ、最後は裏切り者として生きていくよう仕向けられる。奴隷化すると、家畜化すると、猫になってしまって、反抗する気力はもちろん、生きる活力さえ奪われてしまう。母は、「なんでもします。あなたの家の家政婦を生涯かけてやります」と懇願する。
 懇願する相手は、かつて自分の店で無銭飲食を働き、カネを儲けて再び現れ、そのカネによって卑しい振る舞いをする男だ。彼女はその行為をたしなめ、「店に来なくていい」と言い放つ。その相手に対しての懇願なのだ。
 日本は今、大丈夫なのか。ネット上にこんな書き込みがあった。〈9/26(月)深夜、いつも通り路上LIVEをしていると、たくさんのおまわりさんに囲まれました。そして丸2日間にわたり、ずっと、そしてかなりの叱責を受けました。それはそれはもう、大変に恐ろしいところで、とにかく、一刻も早く解放されたいと思いました。屈辱的な身体検査に、この世のものとは思えないほどの罵声。(中略)もう終わりにします。これから生涯、路上LIVEはしません。2016/09/30横田寛之〉
 拷問、暴力、パワハラ。それらは怖い。だけど、その行為者自体が、別の大きな相手からの被害者である場合が多い。組織の中では、上からのどんなバカげた命令であっても、やるしかない。そんな環境によって陰湿化し、憂さ晴らしをするのだ。その人間自体が幸福ならば、そんなことはしない。
 死んでしまった者に声は届かないが、電通社員の自殺もまたそうだったろう。過労死というが、パワハラがあり、時間を奪い、自由裁量を奪う。不自由を強いる。玩具であったり、慰み物であったり、奴隷や、家畜同様の存在になり果てる可能性がある。逃げなければ自殺にまで追いつめられてしまう。いじめられる側というものは、例えイエス・キリストであっても最後は耐えられない。限度がある。しかしいじめる側の暴走は、果てしがなく止まらない。限度がない。ブルーハーツの『TRAIN TRAIN』の歌詞の如く、弱い者たちが夕暮れ、さらに弱い者を叩く。映画とは、この暴力の構図をどう捨象するかなのだ。
さて、その現代日本の切り札は、佐々部清だ。『東京難民』で都市の貧困に寄り添い、新作『種まく旅人~夢のつぎ木~』では、地方の絶望的な未来のなか、夢を語る。貧しい者、未熟な者、恵まれていない者、立場の弱い者に対して、優しい眼差しを本気で向けられるか。そこから答えは自ずと生まれてくる。
 『学校Ⅲ』で、小林稔侍が、よろけながらズボンを穿くシーンがある。加齢と慣れない作業着への苛立ちと戸惑いを示していて、そのシーンが上手い。おそらく練習したのだろうが、地味な努力がスパイスとして効いている。本作の斉藤工はエリートの役だ。運動神経がよさそうな彼はしかし、エリートの運動音痴の如く、わざと遅く鈍臭く走る。隠れた技と共に、この映画自体のテーマに近いアプローチがある。
 ピラミッド力学がしっかりと根を張り、格差社会の進行で、安定した暮らしの者は当然動かず、その下で制度に組み込まれ、自分の不幸さえ満足に把握できない者は、さらにその下の者に対していじめ、憂さ晴らしをし、殺す。
 そこに異を唱える地道な映画。暴力の連鎖の渦中の者は、事態を俯瞰することが出来ない。現場で「辞められずに立ちつくす」ことしかできない電通社員と同じだ。反抗する勇気がない。辞める切り替えができないともいえるが、仕事に対する責任感の強さ、世間に合わせてしまう優しさがあった。だから、死ぬことになるまで頑張ってしまう。現場で閉塞するその声は、自殺直前のツイッターにある悲痛な「情けないもの」でしかない。
 映画とは、せめてもの一歩なのだ。世話になった人の息子一人を助けられなくて何が弁護士だ、と命を賭けて国家に立ち向かう『弁護人』。同様に、好きになった人のために骨を折らずに何が斉藤工だ、と農林水産省の『種まく旅人』。
 その町だけ抜け駆けしようとするこれまでの町興し映画は、得をする地域以外の他の町が潰れていくのを加速させるに等しい。本作には、そんな目論見は微塵もなく、他の町にも普遍的にある問題を取り上げ、そして抜け駆けしない。夢を語る女がいて、夢に賭ける男がいる。清潔で健康な映画だ。
 2020五輪後が「宴のあとの崖」といわれている。夢を揶揄し、足を引っ張る言説で埋め尽くされる社会ではなく、こういう夢を語れる映画が存在し、夢を託せる俳優が堂々と現れ、崖の下り方の模索をともに議論する社会を本気で願う。
 今の日本映画は、ここからしか起ち上がってはいかない。
(Vシネ批評)







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