|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆秋竜山
ヒトはいかに嘘をよろこぶのか、の巻
No.3269 ・ 2016年09月03日
■ヒトはいかに嘘をよろこぶのか。木村泰司『名画は嘘をつく 2』(大和書房、本体七四〇円)では、名画から嘘を指摘している。天下の名画のどこが嘘なのか、名画だからこそ嘘が面白いのである。誰もしらない無名の画であったら、嘘を取り出してみても、ちっともたのしくないだろう。本書はさまざまな観点から名画の嘘を知らせてくれるであろう。だからといって、名画の芸術的価値が下がるかというと、むしろ人気がグンと上がるだろう。絵画鑑賞は嘘発見鑑賞ということになる。
〈しかし、その嘘を見つけることも美術鑑賞の楽しみでもあり、会話の種にもなるのです。ただし、その鑑賞者の感想や印象で嘘が生まれてしまうこともありますし、また勝手に嘘と見なしてしまう危険性もあります。美術史は、そうした間違いを訂正して、本当の嘘と見破る便利で楽しい学問でもあるのです。〉(はじめに) 本当の嘘を見破るということは、嘘の嘘を見破るということでもあるのだろう。タイトルの嘘では〈草上の昼食、エドゥアール・マネの嘘である。当初のタイトルは「水浴」だった〉という。〈1863年、ナポレオン3世によって開かれた「落選展」に、マネがこの作品を出品した際には、人々の怒りを買う大スキャンダルを引き起こしてしまった〉。いかにタイトルが大切かということがよくわかる。それにしても不思議な絵である。芝生の上に〈現代風の格好をした男が2人〉座っているのに対し、二人の裸婦がいる。一人は二人の男のそばで裸婦姿。すこしはなれた奧の池で、もう一人の裸婦が水浴をたのしんでいる。まずビックリさせられるのは、芝生の上で裸婦になるとは。〈売春の世界を描いたものとみなされました。そのように思われてもよいだろうという〉(本書より) 〈草上の昼食〉というタイトルがついているが、芝生の上の裸婦は、女の特権で、全裸になってもむしろ裸婦の芸術性をたかめるということで、ゆるされると共に大歓迎というところだろう。クロード・モネ(フランス、一八四〇―一九二六)にも〈草上の昼食〉という作品がある。 〈マネがモネの作品と同じタイトルにマネ自身が改題したのでした。〉〈ところが、実際の裸婦は本物の娼婦を描いたものではなく、お気に入りのモデルだったヴィクトリーヌ・ムーランです。〉(本書より) なんだ、娼婦ではなかったのか。みごとに、騙されたというか嘘だったのか。娼婦であったほうが場面の物語性があって、それぞれのイメージがふくらんでいくのにモデルとなると、とたんに物語性というものがしぼんでしまうようだ。嘘芸術として、いや騙され芸術として大ケッサクであろう。ビックリ芸術作品に本書では〈後ろに描かれるはずの光輪が、なぜか前に――ジョット・ディ・ボンドーネ、イタリア〉を紹介している。タイトルは〈最後の晩餐〉である。最後の晩餐といえば、レオナルド・ダ・ヴィンチがあまりにも有名だが、他にもあったのである。 〈しかし、光輪は日本では後光とも呼ばれるように、(略)頭の後ろに描かれるべきものです。〉(本書より) ところが、この作品は〈光輪が顔の前に描かれているため、ジョットに名声をもたらした〉という。絵であるから嘘も本当もないってことか。 |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||