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評者◆稲賀繁美
声はどこから到来し、どこに宿り、どこへと舞い発つのか――疑似餌としての標準語・霊媒としての詩語
No.3266 ・ 2016年08月06日




■一九二五年パリ。斎藤茂吉は欧州留学のさなかに花の都を訪れた。敗戦後旧知に日本で再会した歌人は、「まあ青山サン、スンバラクブリでスタなー」と山形の俚言丸出しで相好を崩したという。当時、パリ日本人会書記を務めていた青山義雄は、その三年前の出来事も鮮明に記憶していた。大杉栄のフランス密入国である。「お・お・お・俺が誰だかわかるか」「ああ、分かった」。「お・お・お・俺はアベだ」などという珍問答が交わされたという。大杉は偽旅券に偽名で潜伏を図ったが、メーデーの日に野外演説をして逮捕される。瀬戸内寂聴の『美は乱調にあり』には言及がないものの、サンテ監獄に出向き、大杉の獄中で愛娘「魔子」への思いを綴る詩稿を預かったのは、青山氏だったという。
 茂吉の和歌の背後に山形弁を聞き取り、大杉栄の詩の裏に隠された吃音を復元してみよう。「吟謡による自然の悟入」を説いた歌人には、自らの「声調」が東京では時に嘲笑されるという、劣等感の屈曲が蟠っていた。他方「自由への疾走」(鎌田慧)の生涯を貫いた社会主義者は、現実との軋轢を自らの「吃り」の内に宿していた。別件で千葉監獄に収監中だったため、大杉は辛くも「大逆事件」への連座を免れた。「春三月 縊り残され 花に舞ふ」幸徳秋水ら処刑直後の大杉の句である。一九二三年九月、パリからの強制送還の直後、関東大震災の混乱の内に、その大杉も妻や甥ともども憲兵隊により殺害される。
 めん鶏ら砂あび居たれひつそりと剃刀研人(かみそりとぎ)は過ぎ行きにけり(茂吉)
 生きた声は、やがて首を縊られ、あるいは喉を斬られて、音絶える。だがそれらの声は文字に認められ、うつされて残る。そして文字と化した陰影、その刻印を透かして、人はその彼方に失われた声を聞く。だが失われた声に究極の真実が宿っていたわけではない。むしろ「真実」(まこと)とは、残された痕跡の裡に「喪失」として現れるものではないか。
 この喪失、もはや不在の「もの」の「気」に憑かれる「憑依」が「言霊」の霊験となる。古来、詩人あるいは歌人とは、失われた声の霊媒、声帯模写を事とするワザオギだった。押韻や歌枕、縁語や掛詞といった仕掛けは、反復や重複を手段として、先祖の霊を生身に「口うつし」で憑依させるための工夫だった。それは国学者の折口信夫や、哲学者の九鬼周造が説き、かつみずからも歌人あるいは詩人として拳拳服膺してみせたところである。
 アフリカの神話からアイヌのユーカラまで、無文字社会の口頭伝承は、近代と呼ばれる時代に、学術の名のもとに、権威ある文字へと刻まれた。だが神話の生きた語りは朗誦の度に振幅や異同を発現させる。それを文字化して単一絶対の決定版へと捕獲凍結することには、無理が伴う。とはいえ、無理を承知でひとたび中立を装った文字に刻まれると、それを起点にあらたな口承が、異なったコトバへと伝播を遂げる機縁も生まれる。なぜ宮沢賢治の「なめとこ山の熊」は、小十郎と「標準語」人間コトバで対話するのか。太宰治の『津軽』に転記された「純粋の津軽弁」はなぜ癖のない標準語であり、『惜別』で松島に遊ぶ周樹人こと、魯迅の発した「田舎訛り」はなぜ東京コトバに転記されたのか。それは手酷い矛盾ではないか。だがここでの標準語とは、そこに押し隠された複数の声を暗示するための疑似餌、「非人情」によって人情を刷新し、禽獣をも仲間にして、新たな聴取を増幅させるための転轍機、すなわち「希望を託された言語」esperantoでもあったはずだ。
 起源は喪失を孕み、反復は差異を招く。崎山多美による宮古風versionの「雨ニモマケズ」、中村和恵のクレオール英語の朗読は、その弾性の裡に「声の発芽」を促していた。

*「テクストの声を聞く」日本比較文学会第78回大会シンポジウム、2016年6月19日より。登壇者の崎山多美、中村和恵、千葉一幹、および司会兼任の菅原克也各氏に謝意を表する。会場で発言し損なったコメントを備忘録として、ここに刻むことを許されたい。







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