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評者◆杉本真維子
馬込川の宴
No.3266 ・ 2016年08月06日




■馬込川を見に行った。浜松市の地元の人でも、どこだっけ、とすぐに思い出せないということは、あまり気にされない河川なのだろうか。川原へ降りられることを期待し、堤防を歩いてみたが、柵が途切れる気配はいっこうにない。川原は頑丈に囲われ、向こう側は見えるのにさわれない。
 仕方なく橋へひきかえすことにしたが、せっかく長々と土手道を歩いてきたのだから、この辺でちょっと一休みしたいというものだ。それなりの岩、伐り株、できればベンチ、と探したが、そんなものはどこにもなかった。そっけないアスファルトと、伸びきった芝生があるだけ。強引に草の上に座ったら、しろっぽいものが跳ねた。ショウリョウバッタだ! と隣にいた人が言った。隣にいた人とはイトコのようちゃんである。
 馬込川を知ったのは、私がけがの治療でこのあたりの病院にきていたからだ。都内の自宅を離れ、二週間ほどすごした。ひとりで大丈夫、と周囲に言ったものの、やっぱり遠いなあと、喉を押さえても独り言がこぼれる。さびしいというより、遠い。遠いとは、さびしいということだろうか。
 というわけで、ようちゃんを呼んでしまった。東京にいる人に声をかけるのは図々しいことなのに、身内への甘えとはすごいものだ。すみません、申し訳ありません、と他人行儀に謝りながら、お土産のたい焼きのしっぽを齧った。そのあと、散歩でもしようということになり、私はひみつの場所を披露するような気持ちで、馬込川の方向をゆびさした。
 茶色い錆だらけの古い橋の欄干から川を見下ろすと、だだっ広い川幅の真ん中に何かがいた。突きだした岩の上で、そよそよと動いている。鳥だろう。鳥の横顔が、短い羽毛が、風に吹かれているのだろう。それを確認したい、という動機もあって、川岸をめざすことになった。でも、柵の途切れ目をさがしているうちに、鳥のことは忘れてしまった。ぐるぐるまわって、ただ同じところをまわっただけの短い散歩だった。
 じゃあね、と、ようちゃんは東京へ帰っていった。私はきょうだいがいないので、血がつながっている、ということがいつもふしぎだ。顔が似ているということは、ほかにも似ているところがあるはずだ。鏡を見るように、私にはわからない「私」の気配をうかがって、すぐに引き返す。ようちゃんはようちゃんの領域で埋めつくされている。「人格」が立ちあがる。圧倒されるように、私は「私」の領域へもどり、安堵するように扉をしめる。
 また、ひとりになってしまった。夜は、9時の消灯前に、病院前のバス停のベンチに座って、外の空気を吸うのが日課になっていた。周囲は見渡す限りの田んぼで、なにもない。ただ、暗くて見えないが、一面の田んぼじゅう、蛙がいるらしい。けたたましい蛙の鳴き声が耳のなかをうめつくした。昼間もこんなに、びっしりと蛙だらけだったのだ。

りーりー りりる りりる りつふつふつふ/りーりー りりる りりる りつふつふつふ/りりんふ ふけんふ/ふけんく けけつけ/けくつく けくつく けんさりりをる/けくつく けくつく けんさりりをる/びいだらら びいだらら

 草野心平の詩「誕生祭」の、有名な蛙のオノマトペを思い出しながら、なるほど、こう聞こえる、と頷いて、何事もなかったかのように病室にもどった。いま思えば、なにが、なるほどだ、と呆れる。あの壮大で、エロティックで、狂ったような蛙の宴を、耳で実感したのだ。そんなこと、一生のうちにあるかないかの大事件かもしれないのに。







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