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評者◆谷岡雅樹
スターの売る春の最後は毒入り――スティーヴン・フリアーズ監督『疑惑のチャンピオン』
No.3262 ・ 2016年07月09日




■かつて、ソウル五輪で世界新記録を樹立したベン・ジョンソンが、競技後の検査でドーピング反応により記録と金メダルを剥奪された。カール・ルイスが繰り上げ一位となっても、驚愕のレースを見せてもらったのはベンによってでしかないという気持ちに今も変わりはない。悲劇ゆえの驚愕であった。そして本作は、やはり驚愕の自転車競技で世界を魅了してきた、ウルトラスーパースターの実録映画である。
 ウソの魔力に抗える者はいるだろうか。スターを嫌いだという人間はいるだろうか。パーティーに出たことがあるだろうか。その時、どんな規模や性格の集まりであろうと、必ず、人だかりの出来ている場所がある。その催しの主役的な人物、すなわちスターだ。有名であるとか、お金や地位があるという問題ではない。旬なのだ。引き寄せるオーラがある。近づきたくさせる魅力と魔力を持っている。そして、リンドバーグやガガーリン、ケネディ、ビートルズに匹敵する瞬間が、この男にはあった。ランス・アームストロング。
 父親を知らず、独力で道を切り拓いた男。脳転移の生存確率五〇%のガンを克服し、現役復帰する。アメリカ人でもって、ヨーロッパの至宝たるレースで勝ち、アメリカン・ドリーム・ストーリーを紡ぐ。翌年に発売された自伝『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』(安次嶺佳子訳/講談社)は、世界各国で大ベストセラーとなる。その後七連覇。しかも勝負どころのトラブルの上で逆転優勝し、観客との接触で落車しながらも勝つ。強すぎてタイム差が割引のルールとなり、スタート時に納得いかないときは、マイヨ・ジョーヌ(王者のみ着用できる黄色ジャージ)を着ないなど、その奇行も含めて、毀誉褒貶渦巻く中、人気実力とも頂点を極め尽くす圧倒的ヒーローであった。アメリカで最もポピュラーなスポーツ週刊誌『スポーツ・イラストレイテッド』で、二〇〇二年の年間最優秀スポーツマンにも輝いた。自転車業界全体を巨大ビジネス化し、自らが広告塔としてけん引した。ロードバイクのトレックをはじめ、ナイキ、オークリーといったスポンサーにとってのランスは、ブランドの顔も顔、商売を成功に導く二輪上の英雄であった。そしてウソもまた、市場拡大とともに膨れ上がっていった。
 だが転落する。偽りの物語が遂に明るみに出る。二〇一二年、全米アンチドーピング機関は一九九八年八月以降のアームストロング記録を全て抹消し「永久追放」宣告を行った。同じ二〇一二年にIOCは、二〇〇一年までアームストロングのアシストを務めていたタイラー・ハミルトンの二〇〇四年アテネ五輪金メダルを取り消した。タイラーは、自身のドーピング体験談に基づいた『シークレット・レース』(小学館文庫)を刊行し、その年の最も優れたスポーツ書籍に与えられる賞を受賞する。チームドクターから「ツールのメンバーに選ばれるために健康になれ」との声に耳を傾け、注射をしたのが九七年という。ランスもまた、二〇一三年一月には全米放送のTVインタビューに答える。
 「タイヤに空気を入れるように禁止薬物を摂取した。それが仕事の一部だったんだ」。
 通算安打メジャーリーグ記録を持つピート・ローズは野球賭博で球界から永久追放され、本塁打の通算及びシーズンのメジャー記録を持つバリー・ボンズは、薬物使用に対する偽証罪で有罪判決を受けた。その後も禁止薬物使用の疑いで、アレックス・ロドリゲスなど約二〇選手が長期出場停止処分となっている。一九九〇年代から約二〇年続いたメジャーの「ステロイド時代」と自転車競技の薬物汚染とは重なる。
 TVでランスが語ったと同じ二〇一三年に本人出演の映画『ランス・アームストロング~ツール・ド・フランス7冠の真実』が公開され、アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を受賞する。そして実録ドラマとして今回『疑惑のチャンピオン』の登場である。

れだけ長い間、表沙汰にならず、勝ち続けられたのは、スポンサーのメーカーはもちろん、製薬会社、レース主催者、国際自転車競技連合(UCI)、マスコミ、そしてジャーナリズムをも含めてオール味方であり、不正を隠匿する巨大システムであった。チーム支援車は体力増強のための薬物配送車だ。
 のちTVでランスは、「完璧なストーリーだった。ずっと続くと思っていた」と語っている。本作は情報も本人も周囲も業界ぐるみのウソも出尽くした上での、満を持してのアンチ伝記映画である。
 主演のベン・フォスターは、ランスに酷似している。それが演技力によるものであること以上に、大きな掟とビジネスの中で生きる感覚が、競技と映画とで似ているからだろう。「勝利への底なしの欲望」という宣伝文句があり、差し込みの惹句は「カリスマ、ヒーロー、レジェンド、ペテン師」。ランスを単に「ウソ付き」と非難出来るものなのだろうか。
 どんな世界も、娯楽として、見世物として、映像の被写体として、人々の前に現れたときには、仮面を被って現れている。虚構を伴って出てきている。姿を変えて再現されている。ドキュメンタリーはウソをつくというよりも、ドキュメンタリーこそ、最も性質の悪い虚構である。「情報のショートサーキット場では、認識の時間が無いゆえにリアルタイムが歴史を殺す」と、ボードリヤールは語っているが、リアルタイムには常にウソがあり、描くドキュメンタリーにはさらにドラマチックを盛り込まざるを得ないからこそ、その「真実」を歴史が問い返していく。そこには間違いなく虚構が存在する。
 観る者にとっては驚いた出来事でも、内部に近い人たちからすると、「何を今さら」である。「私の胸は疑似胸よ」と公言してはばからない飯島愛の登場が新しかったのは、お茶の間での楽屋話露出が珍しかったからである。一般に比べて、スクリーンや画面に登場する人たちが、整形手術その他のケアを施しているのは、既に公然の秘密である。内部に近い者ほど、ウソや演技は常識である。ただ、「言わぬが花」として、「それを言っちゃあお終いよ」とされてきた。プロレスでのブック(進行シナリオ)を八百長と呼ぶのが野暮なのは、その世界についての常識知らずな「遠い者」の行為であるからだ。「八百長」は、大相撲の世界での隠語で「注射」と呼ばれている。そして自転車競技においても、注射こそが八百長であった、というのがこの映画の落ちというわけではないけれど、自転車競技最大の闇であり、人間臭い欲望のその先を描いたのが本作のテーマだ。
 舛添要一東京都知事の灰色行為もまた、政治や司法やタレントの側からすると、ブック上の範囲内での出来事かもしれぬ。外野席からジャッジに参加できるのか。しかしプロ野球においても、今年から始まったコリジョンルールによってビデオ判定という「われわれ」観る側の心情に近い道具が採用され、プロとアマ、作り手と受け手の差がなくなっている。

も映画も音楽も、大手出版社やメジャーのメーカー、レーベルでなくとも、今では太刀打ち不能だった既存の高い技術力を上回る品質を生み出すことが出来る。ネット時代の「情報」は、これまで権力者側、一部の特権的なお金持ちが独占的に、不平等に持っていた質や量において、その差を縮めることとなった。海外で既に人気の商品や情報を、ほとんど知らない日本人に向けていち早く取り入れて売り、東京の流行を、地方に時間差でいち早く紹介し儲けていたかつての「情報強者」の優越は失われた。情報は共有され、ディスクロージャーされる。だが、これを皆が使いこなせると思うところに、現代の不幸がある。
 闇カジノで「永久追放」されたバドミントン全日本選手権六連覇田児賢一のインタビューが『週刊現代』(六月四日号)に載っていた。処分は当然のこととしながらも、しかし「熱中した行為自体に後悔はなく、スポーツ選手として自分を成長させてくれたと今でも思っている」と答えている。覚醒剤で有罪判決を受けたプロ野球の元スーパースター清原和博もまた、反省はしつつも、「現役時代は野球でストレスや不安を解決できたが、引退で目標をなくし覚醒剤を使った」と言っている。賭博や麻薬に求めるスポーツ選手の甘えた言い訳にも聞こえるが、善悪の彼岸という領域が確かに存在するのではないか。ドストエフスキーは、四〇歳を過ぎてから生死を賭けたギャンブルに狂った。極限状態で勝負するスポーツ同様に、文学もまた、ギャンブルと通じるものがある。
 政治でご飯を食べている人たちをしっかりと監視する。これは「あり」だ。さらに、わずかなすき間を突いて生活手段を得た人たち(芸能やスポーツ)に対しても、やはり
依然としてしつこく監視する社会であるのも事実だ。この時、映画はどちら側に立つのか。チャンスのない者同士で、共にモラルを破ってはいけないのか。その場所で飯を食っていくためのルール、AVならば肌を晒す、ヘルスは抜く、戦場では人を殺す、嫌なら辞めろという世界だ。ドーピングが常識的に行われていて、成功するには勝つしかなく、ドーピングの力が圧倒的であり、しかも見つかるかもしれないが、見つからないかもしれなかった。ランスの復活劇は、禁止薬物から逮捕者八人を出した一大スキャンダルの翌年であった。
 客寄せパンダとは何か。映画『エレファントマン』では、ゾウ人間とされる主人公を人間として扱う医師について、彼を「宝物」と呼び見世物にしていた興行主や、モンスターと呼ぶ観客たちと一体どこが違うのかを突き付けてくる。人間の価値とは何か。アイヌの天才少女として知里幸恵を紹介する言語学者の金田一京助。天才とは何か。
 人は二度死ぬという。生命の死後に、人々の記憶から忘れ去られたときに二度目の死が訪れるという。その意味で、有名人の場合は、二度目の死を先に迎える者がいる。この映画は生前のレクイエムなのか。カート・コバーンは説明を嫌った。「音楽を聴けば分かることだ」。レースを観れば分かるのか。本作の原題は、ただの『プログラム』である。
(Vシネ批評)







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