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評者◆秋竜山
日記ほどおそろしいものはない、の巻
No.3262 ・ 2016年07月09日




■家庭劇にある日記事件とは、昔からのパターンとして。自分の日記帳を机の上に置き忘れ、それを家内が、なにげなくのぞく。「お前見たな!!」と、烈火の如く怒る亭主。「そんな所へ置くからいけないのよ!! 見られたくないものだったら、ちゃんとして置きなさいよ。それに、そんな目くじらたてて怒るほどの内容でもなかったじゃないの」なんて、屈辱的なことをいわれる。まるでマンガだ。そんな内容の日記だからよかったものの、これが大事件にまで発展する日記だったら、取りかえしがつかないだろう。日記ほどおそろしいものはこの世にない。
 安藤宏『「私」をつくる――近代小説の試み』(岩波新書、本体七六〇円)では、日記について。
 〈自分で書いた日記を読み返し、そこに描かれている「私」の姿にとまどいや自己嫌悪を感じた経験はないだろうか。〉(本書より)
 このように日記を自分以外に読まれてしまうのだから、死んでしまいたい気持になったとしても、これは当たり前のことかもしれない。読まれたのが女房でよかった、と同時に、女房にだけは読まれてほしくなかった、と思う。だから烈火の如く怒る。そうすることによって、ごまかしでもある。怒るしか、他に方法がないだろう。そして、「オイ!! 俺の日記を見たんだから、お前の日記を見せろ!!」なんて、いいだしたらどーしましょう。「バカなこといわないでよ。いったいあなたは何を考えてるのよ」と、なるはずである。考えてみると、夫婦で別々に日記をつけあうということってあるだろうか。「いや、それが普通ではないですか」なんて、いわれたら立場がない。女房の日記を見るということは、女房のハンドバッグの中を見る、のと、いやぜんぜん違うだろう。
 〈描かれている「私」はたしかに自分であるはずなのだけれども、まるで別人のようにも感じられる。いっそ赤の他人ならよいのだろうが、一見異なる人物が実はほかならぬこの自分自身でもある、という二重感覚がわれわれをとまどわせ、羞恥や嫌悪の引き金になるのである。〉(本書より)
 私には日記を書くという習慣はない。めんどくさがり屋だからかもしれない。それでも子供の頃より、忘れていたものを思い出したようにして〈マンガ日記〉なるものを書いたりする。文章日記ではない。自分で描いたマンガに吹き出しの中にセリフを入れるのである。マンガの吹き出しにすると、スラスラ書けるのに、文章だけだと、すぐ何を書いたらいいのかわからなくなってしまう。自分の思いを文章で書くというのは、むずかしいのに、マンガの吹き出しのセリフだと、どうしてスラスラと出るのか不思議である。そういえば今、思い出した。十代の終わりの頃、友人のラブレターをマンガで描き、それを本人が愛している彼女に手渡すということをやってのけたのである。「私はあなたを愛してます」なんて私のマンガで吹き出しに書いた。友人はそれを彼女にソッと渡した。それが、どーなったかと友人にきくと、友人のいうのには、彼女は何もいわず、「アハハハ……」と大笑いし終わりとなってしまったのであった。マンガの日記も、「アハハ日記」のようなものである。マンガはどーしても笑いがつきものだ。







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