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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑰
No.3258 ・ 2016年06月11日




■ピースボートの「世界一周クルーズ」に乗る

 3か月にわたる神戸での震災ボランティアを終えてキャンパスに戻った井筒高雄は、夏休みに入ると、ピースボートの吉岡達也らの誘いに乗って、彼らが主催する「世界一周クルーズ」に参加した。そこで、ピースボートが災害支援で大きな役割を果たせたのは、彼らが編み出したユニークな船旅のシステムにあることを知り、後に井筒が社会活動家に転身するときの糧ともなった。
 井筒は、吉岡らの計らいで、正規の乗船客ではなく、「特別割引料金」のボランティア・スタッフとして乗船できることになった。そのため、乗客のサポートをはじめ様々な船内雑務をこなすことで、おのずとクルーズの仕組みもわかってきた。船上の人となって数日もしないうちに、なるほどよくできていると感心させられた。
 なによりの発見は、「神戸の長田での3か月はクルーズそのものだった」である。
 ピースボートの「世界一周クルーズ」の全行程は90日。その間は日本から隔離された「閉じられた社会」が洋上を航行する。それはまさに震災によって基本的なライフラインが断たれ閉鎖を余儀なくされた長田の3か月と、重なるものがあった。被災して外部世界から断絶された長田は、いってみれば難破したクルーズ船だった。
 井筒にはピンときた。ピースボートは3か月にわたるクルーズを10年以上にわたって十何回となく繰り返すなかで、乗客たちとのコミュニケーションやネットワークの築き方をノウハウとして蓄積し、それがそのまま長田で生かされたのではないか。だから、「震災支援初体験」であっても、古強者のNPOを尻目にあれだけの活躍ができたのだと。
 たとえば、震災ボランティアに関わったときに驚かされた日刊生活情報紙「デイリーニーズ」が好例である。乗船したその翌日の朝から、パソコンで作成した「船内新聞」が配布された。
 「世界一周クルーズ」では、毎日のように硬軟とり合わせた各種の講演やイベントが開催されるが、その講師やパフォーマーの紹介、あるいは次に寄港する土地の平和交流に関するホットな情報などが掲載されている。そしてなによりも、乗客からの「こんなことがあったらいい」といった要望や「こんなことをしませんか」という呼びかけが飛び交い「乗客」を「被災者」に置き換えれば、さながら「デイリーニーズ」の再来であった。
 はじめて「船内新聞」を手に取ったとき、「なんだ、そうだったのか」と井筒は思わずつぶやいていた。過酷きわまりない状況のなかで、震災発災からわずか7日で日刊の生活情報紙を長田全域の被災者にむけて発刊、当初は徒歩で後には銀輪部隊で配布をつづけた責任者の山本隆を「すげえやつだ」と尊敬したものだが、すでにクルーズで練習済みだったのかと気づき、改めて彼らの底力に脱帽させられたのだった。
 「震災支援とクルーズは同じ」という井筒の発見については、実は当時のピースボートの中心メンバーたちも、無事支援を終えた後に、気づかされたことだった。本部の現地責任者であった吉岡たちは、当初はピースボートの本業が平和国際交流であることから現場の支援に入ることに、どこまでできるか、かえって迷惑をかけるのではないかと戸惑いがあった。しかし、首尾よくやれたことで、井筒と同じように、自分たちはクルーズの中でそのノウハウを蓄積していたのだと認識させられたのである。
 井筒はこのクルーズで、さらにもうひとつ、震災ボランティアをめぐる貴重な「気づき」のきっかけを得た。正確にいうと、後に妻の井筒陽子から、当時の苦労話をきかされて、「そうだったのか」と気づかされたというべきかもしれない。それは、ピースボートの寄港先の「受け入れ先」の優れたコーディネート能力があったから、長田で他のNPOがボランティアの受け入れ先に苦労するなか、「初陣」のピースボートが実に柔軟かつ的確にそれをやってのけたのではないか、というものだ。
 ちなみにこのクルーズで、井筒は、当時のPLOとイスラエルの間で調印されたオスロ合意後のイスラエルを訪れた。和平の試みとしてガザ地区の暫定自治区もスタートしていたが、夜になると昼間の空気は一変する。街中では銃声や砲弾の音が聞こえてくる。和平合意をしても、街中では突発的な衝突が起きる紛争の現実を垣間見た。フランス・マルセイユでは(シラク政権時)核実験に反対するデモを行い、広島・長崎の原爆被害の写真展を開催した。CNNの取材も受け、日本にも放映されたことなど、これまでの自衛隊での体験、あるいは大学での授業では得られない貴重な知見を得ることができ、これほどの「視察受け入れ先」を見つけるのはさぞや大変だろうと感じ入ったものだった。
 井筒陽子によれば、クルーズの仕込みのなかでも適切な受け入れ先を見つけるのが一番難しい。1983年に始めた当初は苦労の連続だった。初めての国、初めての地域では、どこの誰に受け入れてもらえるのかは企画全体の成否にかかわる。右と左に分かれて争っている極端な地域もあれば、戦争が勃発する危険をはらんだ地域もある。そうした複雑な状況を判断しながら一つ一つ創意工夫を凝らしながらノウハウを蓄積してきた。
 長田に入るにあたっても、ピースボートがクルーズで培ってきたそうしたコーディネート能力がいかんなく発揮されたのではないかと陽子はいう。思えば、すでに何度か紹介したが、デイリーニーズの発刊も、ガテンチームの活躍も、ピースボートに親和的な受け入れ先があったからだった。
 陽子に話を聞かされて、震災支援のガテンチームのリーダーとしてそれなりの役に立ったと自負していた井筒だったが、実は、受け入れ先が用意されていたから活躍もできたわけで、いわば釈迦ならぬ妻の手の中で踊っていたのかもしれなかった。
 陽子によると、当時の災害支援でボランティアを集めて現地に送り込むというシステムはほぼゼロだった。既成の団体が自分のスタッフを現地に一方的に「派遣」するのが通常の形だった。一般の人をボランティアとして募集して現地に組織的に送るというのはおそらくピースボートが初めて試みて定着させたものだった。そのシステムとノウハウは、その後、他のNPOにも「継承移転」され、福井のナホトカ号による油汚染、中越地震、そして3・11の東日本大震災で大きな成果をもたらすのである。
 このクルーズの全日程は3か月だったが、井筒は夏休み明けには大学の授業に出なければならないため、フランス・マルセイユから途中帰国。エジプト合流の航空運賃を含めて約20万円は自腹をきらねばならず、手痛い出費ではあったが、3週間ほどのクルーズで得た知見と気づきは、それを差し引いてもはるかにお釣りのくるものであった。
(文中敬称略)
(つづく)







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