書評/新聞記事 検索  図書新聞は、毎週土曜日書店発売、定期購読も承ります

【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。

評者◆寄川条路氏インタビュー
ヘーゲルが書き込みをした自著『差異論文』は偶然と運命が交わる地点で救出された――ヘーゲルと今泉六郎。ドイツから日本へ、たった一冊の本をめぐる二〇〇年のドラマ
今泉六郎――ヘーゲル自筆本を日本にもたらした陸軍獣医
寄川条路
No.3256 ・ 2016年05月28日




■ヘーゲル研究を専門とする寄川条路氏が、『今泉六郎』(ナカニシヤ出版)を上梓した。二〇一四年に日本の古書店で発見されたヘーゲル著『フィヒテとシェリングの哲学体系の差異』(一八〇一年の初版本、通称『差異論文』)。その本には、ヘーゲル自身による、『エアランゲン文芸新聞』に掲載された書評の写しと自身のコメントが書き込まれており、「世紀の発見」として各種メディアで話題を呼んだ。寄川氏は、その話題の張本人。本書は、発見の経緯と、書き込み本を留学先のドイツから持ち帰った、会津出身の獣医学博士・今泉六郎(一八六一~一九三二)の人となりを綴った一冊だ。
 発見の端緒となったのは一通の手紙だったというから、あまりの偶然性に驚かされる。「神田の老舗・田村書店に勤めている高橋麻帆さんから、ドイツ文学の研究者である妻宛てに手紙が来たのです。『ゲルマニスティネンの会』というドイツ文学を研究している女子会のお知らせでした。そこで私がパソコンで田村書店のホームページを見たのです。するとオンラインショップの哲学コーナーに一冊だけ商品がありました。たった一冊です」。四一万一四〇〇円で出品されていたその本こそ『差異論文』だったのである。「あの手紙がなかったら、HPを見ることはありませんでした。あのときに一度見ただけで、以来見ていません」とほほ笑む。
 しかも寄川氏ではないほかの誰かではこの発見は成立しなかった。というのも寄川氏は、「一九九〇年代に四年間ドイツのヘーゲル文庫に留学していて、一七九七年から一八〇三年のヘーゲルの自筆草稿を読んで博士論文を書いていた」経験の持ち主で、インクや紙の種類という客観的証拠を基にして、書かれた時期を特定することができる。つまり筆跡を見れば、それがヘーゲルのものかどうかが分かるのだ。だからこそHPの写真を拡大して見たとき、「『あ!』と声が出て、手が震えました。間違いなくヘーゲルのものでした」。
 すぐに田村書店に連絡。実物を届けてもらい、その写真をヘーゲル文庫に送り鑑定を依頼すると、それは直筆に間違いないという連絡が来た。実は田村書店は二〇一三年のオークションで同書を入手してから、日本国内の著名なヘーゲル研究者たちに「初版本がありますから買いませんか」と尋ねていた。しかし、書き込みがあるなどの要因で、誰も購入しなかったという。「ヘーゲルは生前に五冊本を出していますが、自身が自著に書き込んだ本はありません。ですからこれが唯一の確認された本なのです」
 これだけでも十二分に「偶然」の展開だが、同書が田村書店に渡るまでの道のりをつなげるとまるで「運命」を感じさせる。今泉は、一九一四年に、放火により校舎を焼失してしまった小田原中学校(現在の小田原高校)に蔵書一一八冊を寄贈。洋書は一〇冊だったのだが、なぜか『差異論文』一冊だけが廃棄処分に。それがある個人の手元に渡り、二〇〇〇年頃に中野の古書店・訪書堂書店が、亡くなった個人の遺族から、同書を含む洋書数百冊を購入する。二〇一三年にインテリアとしての洋書の需要ブームを受けて、東京古書会館の入札会に出品。インテリア用に洋書を扱う目黒の古書店・西村文生堂書店がその数百冊を一括して一六〇〇〇円で買い取る際に、田村書店が一冊だけを一五〇〇円で譲り受けたのである。まさにキーワードは「一冊」。寄川氏に発見されるべくして発見されたという「運命」を感じざるを得ない。ちなみに「ゲルマニスティネンの会」の発表内容は、「洋書は読むためのものではなく、インテリアとしてオシャレなブティックやレストランに飾られるオブジェになってしまった」ことについてだったとか。『差異論文』がたどった道程を暗示しているようで面白い。発見のキッカケを作った高橋さんは、本書の最後に解説「本が廃棄されること」を寄せている。
 今回の発見で、その本の所持者であった今泉六郎にも光が当てられた。「本の見返しに書き込まれていた「今泉博士寄贈」という言葉を見て、それは誰だろうと思いました」。そんな寄川氏は、「誰だろう?」と思うだけでなく、それを実際に行動に移した。博士号を持つ今泉姓の人たちに片っ端から手紙を出したり、小田原高校の同窓会に問い合わせたりして、それが「今泉六郎」であることを突き止めた。調査の過程で、大正時代の新聞に今泉の記事を発見。それは自宅に強盗が入ったというニュースで、そこに住所が書いてあった。寄川氏は、またしても行動力を発揮。まず小田原市役所に確認して、現在の場所を把握。そして現地に赴いてみると、そこには「今泉の表札があったのです。取り敢えず呼び鈴を押すと、曾孫の奥様がいらっしゃいました。この本を一番喜んでくれたのは、やはり今泉家の方々ですね」。
 偶然と運命が交わる地点で救出された『差異論文』。「ある研究者の方から言われたのですが、電子書籍の時代であれば起きないことだと。今回の出来事は、紙の本だけに起こりうることです。紙の本だから、自身の筆跡で書き込めるわけですからね」。たった一冊の本をめぐる二〇〇年のドラマに、さしもの大哲学者ヘーゲルも驚いているに違いない。







リンクサイト
サイト限定連載

図書新聞出版
  最新刊
『新宿センチメンタル・ジャーニー』
『山・自然探究――紀行・エッセイ・評論集』
『【新版】クリストとジャンヌ=クロード ライフ=ワークス=プロジェクト』
書店別 週間ベストセラーズ
■東京■東京堂書店様調べ
1位 マチズモを削り取れ
(武田砂鉄)
2位 喫茶店で松本隆さんから聞いたこと
(山下賢二)
3位 古くて素敵なクラシック・レコードたち
(村上春樹)
■新潟■萬松堂様調べ
1位 老いる意味
(森村誠一)
2位 老いの福袋
(樋口恵子)
3位 もうだまされない
新型コロナの大誤解
(西村秀一)

取扱い書店企業概要プライバシーポリシー利用規約