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評者◆谷岡雅樹
格差社会の豚のケツ――マシュー・ハイネマン監督『カルテル・ランド』
No.3255 ・ 2016年05月21日




■麻薬が人間に悪いことは分かっている……冒頭でこう語られるドキュメント作品が今、絶賛のもと公開され、また善悪の彼岸を叩き付ける。
 メキシコ麻薬戦争を追ったドキュメンタリー映画『カルテル・ランド』だ。
 「麻薬が悪であることは分かっている」。それでも造ってアメリカに売る。その後に続く言葉が観る者を直撃する。解決策を、答えを、生き方を、われわれに突き付けてくる。貧困や銃撃戦とは無縁にのんびり生きている人間に向かって、本気で問うてくる。
 「だけど仕方ないだろ。俺たち貧しい生まれの人間が、良心に耳を傾けたら、すべてが台無しになる」。さらに続く言葉。「政府は国民を守ってはくれない」「国は貧乏人を搾取するばかりだ」「どうせ殺されるなら、戦って死ぬ」「この身を守ってくれるなら自警団でも警察でも構わない」「敵と同じ悪に落ちたら終わりだ」。
 政府がだらしなく、国家が不甲斐なければ、政治は腐敗し、マフィア(カルテル)がのさばり、ギャングがカネをばら撒いて国に幻滅した市民のヒーローとなる。カルテルが警察となり小国家化する。そこで対抗組織の自警団が生まれる。無力化した警察や軍に代わって自警団がカルテルをやっつける。カルテルと通じている警察をも襲う。自警団がヒーローとなるが、この自警団の一部が警察と結んで悪に手を染める。或いはカルテルと繋がる。権力を手にした自警団の一部は麻薬製造に手を出す。新しい自警団、別のカルテル、新たな政府、それらが次々と現れる。さらなる順列組合せ。密売。利権に群がるのは悪党も国も銀行も同じだ。法を侵していても、俺たちは悪人じゃないという。敵の敵は味方なのか。無法地帯。悪とは、正義とは何なのか。政府は自警団に警察
の所属下となるよう要請する。自警団の末端の戦力は、少なくともカルテルからの殺害から逃れられる。しかし市民にとっては裏切りだ。見殺しにされる。権力と結びつく自警団そのものが不要という市民も当然いる。生活のために麻薬カルテルに身を投じるのもまた市民だ。一体どうなっているのだ。

画には宣伝文句がつきものだ。著名人の絶賛コメントは、批評ではなくほとんど広告に準ずる。そこでは「見るべき価値」や「享受すべき思想」「味わうべき感動」「観逃すべきではない衝撃」「受け止めるべき作家の意思」「対峙すべき誠実なメッセージ」が語られる。だが映画は本来娯楽だ。
 本当のコメントは「享楽すべき娯楽」だけのはずだ。娯楽以外は皆、作者に責任を委ねて、どことも特定できない位置で神輿を担ぐ、何の主張もない戯言に過ぎない。それは作品自体をもまた、おこがましい存在としてしまう。コメント同様に、無用の長物として、「まずは娯楽だ」という存在から遠ざかっていく映画。社会運動の道具としても、思想のはけ口としても、ルポルタージュとしても大して機能しない余計なお世話となる。
 障害者や恵まれない者、事故や災害の被害者、戦火や野蛮な国家の圧政下の人々のドキュメンタリーを観る。「可哀そうだ」という涙による浄化作用。「自分はまだましだ」という対比としての希望や癒し。「こんな現実もあるんだ」という知識や情報習得の喜び。そういった目的や成果、仕様のために観ることが「上から目線」で不謹慎だという人もいる。だけど、興味のとっかかりは我が身の怯えであり、日常生活の苦闘や悩みに過ぎない。
 『カルテル・ランド』は、分かったつもりの情報提供映画ではない。「見るべき」という安いお説教をひけらかさない。絶望と不信の先に、理解不能な現実を立ち上げる。その上で遠い海の向こうの出鱈目な世界が、自分と繋がる。七〇〇社の日本企業がメキシコに進出しているから繋がるという話ではない。
 二〇一四年に出た『メキシコ麻薬戦争――アメリカ大陸を引き裂く「犯罪者」たちの叛乱』(ヨアン・グリロ/現代企画室、山本昭代訳)を読むと、事態の最悪ぶりが分かる。カルデロン大統領誕生後の二〇〇六年一二月一一日に「メキシコ人の日常の平安を取り戻す」と麻薬戦争布告がなされ、その後の二期六年の政権で抗争が収まっては激化、アメリカの支援、警察部隊とカルテルとの連携などが入り乱れて、結局は破壊的状況のまま退き、二〇一二年一二月新大統領になってからは、アメリカが困惑し、オバマも内戦支持をしなくなり、アメリカから入国した捜査官まで殺害される。銃で撃たれ死ぬ確率世界ランク(NYタイムズHP)でメキシコはエル・サルバドルに次ぎ二位だ。
 ジャーナリストの工藤律子によると、カルデロン政権「死の六年間」で〈七万人前後の麻薬戦争絡みの死者〉(『世界』二〇一三年二月号)があり、〈二〇〇六年一二月(中略)以来、現在までに、「麻薬戦争」絡みで一五万人以上が殺害され、三万人近い人々が行方不明になっている。〉(『週刊金曜日』二〇一六年一月八日号)とある。つまりは最新の三年間で一〇万人以上が殺害もしくは行方不明となっていて、本作はその最中のドキュメンタリーというわけだ。
この物語、いや現実が、どうしてわれわれの生活と陸続きとなるのか。護送船団方式の高度経済成長国家、終身雇用、永遠の上昇エレベーター、昇給賞与の続く万全の会社村社会。企業内完結の安心感で生きてきた日本の中心をなす層は、自分たちが、貧困層のチャンスを阻み、抑圧する存在だということに気づかない。だが会社一辺倒の人間は、バブル崩壊後にギスギスと自らの悪に復讐される。隣のホームレス。近くの三万人の自殺者。日本の使い捨ての割り箸が、かつてマレーシアの部族間に「枯れ葉戦争」を巻き起こしたように、グローバルスタンダードという搾取が跳ね返ってくる。新植民地主義。某国の繁栄は、別のどこかを不幸にしてきた。そして現在も続くメキシコ麻薬戦争である。
 いったい誰が観るのか。メキシコの麻薬戦争に興味があったり、身近に感じたりする者が今の日本にどれだけいるのか。身も蓋もない話だが、コメンテーターは、只で映画を観せてもらえるし、メリットがあるからコメントする。腹の足し、飯のタネ、或いは表現という存在証明に繋がる。そんな特権者の言葉を誰が信用するものか。
 驚いた。「この銃撃戦が同じ地球上の同じ国際社会に起きている現実なのか。まるで映画みたいだ」というのが、カマトトにも成れぬ私の正直な感想だ。実は大震災も原発も隣のホームレスも「よそ事」として対岸の火事であり、我がことに感じられず沈黙するより他なかった。目先の借金や生活に比べ、問題としては吹っ飛んでしまう感覚が私にはある。
 だが地続きであることに気づかされる。観ているうちに圧倒される。メキシコ麻薬戦争は、世界の虐殺、紛争、難民問題の最も欲望に根差した頂点を指し、かつ根源の中心課題を示すもので、今後の謎解きの手がかりとなる要素が強い。その理由は、この問題が、世界の覇権国アメリカの隣国で起き、格差が根に存在し、宗教や信仰、愛国心の問題があまり絡まずに、金銭そのもので展開し、生の欲望によって、具体的な身体でもって人間が動いているからだ。『仁義なき戦い』を観るのと変わらない。食うために、銭のために、生活のために、家族のために、生存のために、必死で蠢くプリミティブな人間そのものの姿でしかないからだ。残虐で、即物的で、イデオロギーも、主義主張も、宗教観も、土地柄も、性別や年齢すら関係がない。それは、映画にだけは何とか辿り着くボウフラでしかない、東京の現在の私の現実とダイレクトに繋がる。
 日本ではある時期までは幻想として「老人を敬う社会」が存在した。少なくとも神社の賽銭箱から盗むとか、目の見えない人から釣銭を誤魔化すような卑劣な人間は、外道として、恥ずかしい人間として軽蔑された。だがバブル崩壊後に、失われた一〇年二〇年と過ぎ、オレオレ詐欺が怒濤の広がりを見せるのは、法の網の目を発見したからではなく、元々手を付けなかった「恥」の汚れた屈辱的な行為に手を染めたからに他ならない。仁義も礼儀もへったくれもなく、情け容赦なく「オレだよ、オレ」と電話する。メキシコで、麻薬を売りさばくギャングの少年とどこが違うのか。

家が描くのは、その問題が分かるからではない。障害者を描くにしても、DVやレイプを描くにしても、理解できるほどに取材し、勉強し、学習し、よき伴走者、身内となったからではない。作品が仲間内の業務報告であっては、部外者には意味がない。「分からない」ということを描くからこそ、同じように分からない者たちの無関心や怠惰を直撃する。心を打つのだ。身につまされ、共振する。それだけ過酷な痛みや悩みを生き、まったく別の場所で、もう一つの現実としてその人間が持っているというただそれだけの魂の接触である。
 ISは、アメリカにとってアサド政権打倒のための「望まれた」勢力でもあったけれど、メキシコの政府やカルテルや自警団は、アメリカの思惑からいずれもスルリと抜けて、人間個々人の違いほどに、存在そのものが把握や理解を拒否している。カルテルは麻薬密売組織というよりも、世界五四カ国を舞台に多様な悪のビジネスを展開する“犯罪の多国籍企業”だという。アメリカの正義が通用しないほどに別の「惹き付ける」魅力があるとしか言えない。だがそれは恐怖と隣り合わせだ。
 知り合いの友人が、高校一年の夏休み「不能」になった。家出をして、友達の家に泊れという誘いを断り公園で寝た。一日目に缶コーヒー、二日目に弁当を差し入れしてくれた優しいオジサンがいた。三日目にその男と五人の仲間がやってきた。裸にされ強姦される。教訓話というわけではない。ただの「善き」ホームレスたちの場合もあったであろう。
 本作を観るか観ないかで試され、観てからなお問われる。メキシコのギャングと自分と悪とが同じ地平に繋がっていることを実感できるのか。そしてこの文を書いている私自身が、その行く末を、顛末をここに滲ませる。銃を突き付けられてはいない。だが、この国の片隅で身を潜めている。手を染めまいと必死に息を殺している。
(Vシネ批評)







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