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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑭
No.3251 ・ 2016年04月16日
■「粉塵まみれの被災地・神戸」に愕然とする
井筒高雄の建築系と石丸健作の運搬系は仕事が重なることもあり、ピースボートの拠点である新湊川公園のほど近くに、自ら二階建てのプレハブを建た。そこは常時20~30人が寝泊まりするガテン系の「梁山泊」となった。地元の長田で兵庫商会という部品会社を経営し、自身も被災された兵庫商会の田中保三社長から提供してもらったものだった。 井筒たちガテン系ボランティアにとって誇り高きシンボルがあった。それはNGKのマークがしるされたイエローキャップ(黄色の安全帽)で、それが「梁山泊」への通行証だった。 NGKとは「日本碍子株式会社」のマークで、前述の田中社長が提供してくれたものだ。それ以外にも、田中社長には、自らの土地を自由に使わせてもらうなど、大いに世話になった。特に井筒は気に入られ、ガテンチームのメンバーが増えるたびに、「社長、またイエローキャップをいただきたいんですけど」とお願いにいくと、快く応じてくれた。 こうして、NGKの黄色いヘルメットはガテンチームの「制帽」となり、それを被っていると、メンバー全員の士気と誇りが高まるシンボルとなった。 そんな黄色い安全帽のガテンチームをまとめるなかで、井筒は、大きな体験をする。ひとつは、被災者の一人が淡路島へ引っ越しをするというので、大型トラックを運転して随行サポートしたときのことだ。 明石大橋をわたって、はるか神戸をみはるかすと、ガテンチームのシンボルである安全帽と同じ黄色に染まって霞んでいるではないか。被災のガレキなどから生じた粉塵のせいだ。その中には命にかかわるアスベストもふくまれているかもしれないと思うと、背筋が寒くなった。これはなんとかしなくてはいけない。井筒にとって原稿書きは「不得意科目」の最たるものだったが、スコップやロープをもつ手にペンを握りなおして、山本隆らが日夜編集配布している生活情報紙「デイリーニーズ」に、冷や汗をかきかき、(当時は旧姓の「宮寺」名で)、「続・防塵マスクの勧め/黄色い町・神戸」と題して、こんな短文を寄せて警鐘を鳴らした。 「淡路島へ行った。海上から眺めると、須磨港を中心に、東側は港を離れるにつれて街が黄色の粉塵で見えなくなる。西側は薄茶色で、街がぼやけているようだ。淡路島の透明な空と粉塵に包まれた神戸の街。その対照的な光景に私は愕然とした。長田に来て一カ月が過ぎようとしているが、あんなに黄色い粉塵の下で生活しているとは考えもしなかった。地元の人達は、この事実を果たして知っているのだろうか。健康管理のために、今マスクは、強制的であってもおかしくないほどに必要不可欠なものなのだ。あの粉塵を見て以来、私は、マスクをきちんと着用している」 この淡路島への引っ越し支援には、思わぬ「副産物」もあった。そのとき、協力同行してもらった物流チームのリーダーである石丸の「思わぬ弱点」を知ったことだ。金髪にマスク、ドカジャンという出立ちでいきなり長田に登場した石丸は、九州でも荒くれ者が多いことで知られる筑豊の暴走族のヘッドという触れ込みがオーバーラップして、おのずから周囲を威圧する雰囲気をかもしていた。体力と胆力にはいささか自信のある井筒でも、親近感は覚えながらも「こいつ怒らせたらこわそうだ」と感じるところがあった。 しかし、神戸の状況をしっかり確認しようと、高さ100メートルほどの「世界平和大観音像」の展望台に一緒にのぼったところ、石丸はにわかに「ビビり」はじめた。理由をきくと「おれ、高所恐怖症なんだ」。これで石丸の「かわいい一面」を知って、井筒と石丸の関係はいっそう親密になり、ガテン系の結束もいっそう高まることになった。 もう一つ、井筒は、大きな体験をする。 震災支援も2か月を超えて3月に入ると、ボランティアたちの中に「燃え尽き症候群」が多発するのである。 ほんとうに自分は役に立っているのか。もっとやらなければいけないのではないかと自分を追いつめ、どんどん目がすわって、中にはふいと姿を消してしまう者も出る。ところが、奇妙なことに、井筒と石丸のチームからは発症者が一人も出ない。出るのは、独居老人ケアなどをやっている「精神労働系」ばかりなのだ。 こうして非ガテン系ボランティアのほうが被災者化してしまい、吉岡や山本たちを大いに悩ませた。山本は往時を思い出して、こう語る。 「(ボランティアが)黙って消えてしまうのも、夜中にワアーと暴れ出すのも普通なことで驚きはしなかった。最大の問題は、寒くて周りが全部焼野原という過酷な環境の中で、2カ月も3カ月もテント生活。人間、そこで毎日プレッシャーにさらされたら、狂うにきまっている」。だから、そんななかで、狂わなかった井筒や石丸たちガテン系ボランティアについて、「どういうセルフ・コントロールをしていたのか」と不思議でならなかったという。 当の井筒たちにしたら、「特段なにかしたわけでなく適当にやっていた」としか答えようがない。しかし、今から思い起こしてみると、「肉体的には辛いが精神的には楽だったかもしれない。なにかを考える前に体を動かせ、悩みがあってもとにかく寝ろ、明日は早いぞという日常活動の基礎的繰り返しが、結果として燃え尽き症候群を生まなかった。また、自分のできることは知れている。自分のキャパをこえた活動は継続できない。自分の理想とするボランティア像に縛られると、悩み燃え尽きていったように思う」と気づかされた。 その上で、さらなる気づきがあった。燃え尽き症候群をどうするのか? 吉岡や山本の判断は、「現場から離れる」であった。数時間でも、数日でもよい。被災者のためにもっと頑張らないと、との想いにブレーキをかける。意図的にリフレッシュする場をつくることであった。 バスを借りきって、ボランティアたちを姫路のラドン温泉に連れていくことにしたのである。 まだまだ寒い時節だった。風呂に入ったとたん、それまでは眉間にしわを寄せて目がすわっていた「非人間的な顔」が、みな一様に仏のように温和になったのだ。 これには、ガテン系の井筒はもちろん、非ガテン系のリーダーの吉岡や山本も驚かされると共に、学ぶところが大きかった。このときの体験が、ピースボートのその後の災害支援のノウハウとして生かされ、今回の東日本大震災では「燃え尽き症候群」をほとんど出さずにすんだのである。 (本文敬称略) (つづく) |
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