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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑬
No.3250 ・ 2016年04月09日
■行政の震災支援の限界を思い知る
長田へピースボートのボランティアとして入った井筒高雄が早々に発揮したのは、総責任者の吉岡達也にも意外な「組織統括力」だったが、やはり餅は餅屋。じきに井筒はガテン系のチームリーダーに推され、期待どおりのスキルを存分に発揮するようになる。 まずは、ガレキの撤去やボランティアの受け入れのためのテント張りなどからはじまった。初動の活動については自衛隊時代のレンジャー教育と災害支援で体験済みだったので、井筒にはお手の物だった。手際のいい働きぶりに、「ピースボートには元自衛隊がいるらしい」とのうわさが広まり、それを聞きつけた行政から依頼があり、それが一層、井筒たちガテンチームの名を高からしめることになった。 それは、半壊した家屋の屋根にブルーシートを張るという作業である。仮設住宅どころか避難所の受け入れも不十分ななか、安全性が確認できれば、とりあえず屋根や外壁の損壊箇所をブルーシートで覆うことで雨風はしのげる。そうすれば、被災者の自宅帰還が可能になるというものだ。 アイデアは結構だが、長田区役所の虫のいい言い分に、井筒は唖然とした。ブルーシートを屋根にあがって張って欲しいのだが、怪我や事故を起こしたりしても、役所としては一切責任は負わないし、補償もしないというのである。緊急事態になると役所仕事の限界が露呈する典型的な例だった。役人根性というか責任回避まるだしの対応に呆れはてたが、それでも井筒たちは、「自己責任」を覚悟で受けることにした。 そのために、選りすぐりのとび職と大工たちを集めた。さすがにプロだけあって、屋根はもちろん梁など家の構造を熟知していて、家の形状によってどこをどう補強すればいいか的確な判断ができる。井筒は井筒で、自衛隊時代に学んだロープワークがブルーシート張りに大いに役立った。井筒はリーダーとして、自らも黄色い安全帽(ヘルメット)と地下足袋にはきかえて、作業の指揮にあたった。 辻元清美が「朝まで生テレビ」に出演、「ピースボートは、行政もようやらんブルーシート張りをやっている。それで、被災者は自宅に早く戻れてもとの生活ができる」と井筒たちの活動を紹介、たまたま仕事を終えて歓談しながらそれを見ていた一同は大いに元気づけられた。 初動の復旧作業がひと段落すると、ガテンチームの次なる任務は全半壊した家屋から引っ越しする被災者のサポートだった。これには井筒が自衛隊で取得していた大型免許が役に立った。 つづいて井筒たちが取り組むことになったのは、プレハブの組み立てである。ある会社から中古のプレハブ20戸分の提供の申し出があったので、生活情報紙「デイリーニーズ」(これについては次々回で詳しく紹介する)に、仮店舗用にプレハブが欲しい商店主を募集、必要な人には要望を聞いて一戸一戸建てていった。 ピースボートのガテン系には、もうひとりユニークなリーダーがいた。井筒より数日遅れで長田に入り、物流チームを率いることになる「マルチャン」こと石丸健作である。「参加」の仕方と「出自」の毛色の変わりようが、どこか井筒に似ていた。 筑豊の元暴走族の「頭」で、建設・運輸の仕事についていたが、先に神戸にボランティアに入っていた姉に誘われ、「よっしゃ、人助けをしよう」と思い立ったものの、姉がかたっぱしからボランティア団体に電話を入れても断られ、ピースボートに「拾われた」のである。 中卒の石丸が一番驚いたのは、生まれてはじめて体験した「ミーティング」だった。話し合いで事を決めるという「文化」は、もちろんかつて属していた暴走族の世界にあるはずもなく、石丸はこれは「やらされている感」がなくて素晴らしいと感じたという。また、それまでは遊びの相手でしかなかった女性と一緒に仕事をすることになったのも新鮮だった。さらには、大学生と接するのも、それも合コンや就活に一喜一憂しているヤワな連中ではなく、ボランティアを志す、どちらかというと「左がかった」大学生と出会ったのも初めてだった。なにもかも初めて接する人々であり、活動であった。 そんな石丸のカルチャーショックは、まさに「男社会」の自衛隊上がりで、5年遅れで大学に進んだものの「左がかった」大学生との付き合いはそれまで一切なかった井筒とも大いに共振するところがあり、二人はたちまちウマがあった。 いっぽう、本部の総責任者の吉岡達也や現場の責任者の山本隆らピースボートの生え抜きからすると、井筒と石丸のガテン系ボランティアたちは、頼もしい反面、どこか「異文化の人たち」であった。 ちなみに、吉岡は、ピースボートの立ち上げから、阪神・淡路大震災への支援に関わることになった経緯と想いをこう述懐する。 「前の世代の全共闘運動が終焉して、ペンペン草1本すら残っていない状況のなかで、大学に入学した。学生運動をやりたかったけども、手がかりが何もない。いわば、幼稚園の時にうろ覚えたインターナショナルを歌いたくても歌う場所がない、最後のかわいそうな子供たちだった。そんななかで、実際に社会をちょっとでもいいから、大きくなくてもいいから変えられる具体的なものを欲していたんだと思う」 一方の山本隆は吉岡よりも10歳下の現在45歳。関西の大学に入学したときは、吉岡の時代よりもさらにキャンパスは静まり返っていた。そんな山本がピースボートに関わるようになったのは、父親の「引き」だった。父親は「名うての左翼活動家」で、戦後暴力革命をとなえた共産党に専従として関わるが除名。非共産党系の活動家として関西で60年と70年の両安保闘争をくぐり、牛乳屋やアラビア語の翻訳会社を立ち上げるも失敗。その後東京に出てピースボートの専従になり、引退後、息子の隆が専従を引き継ぐことになる。それゆえ山本は「ジュニア」の愛称で呼ばれていた。 このように、神戸の震災時におけるピースボートは、人材・人脈的にも、なんとも奇妙な「異文化の混合状態」にあった。しかし、後に詳しくふれるが、むしろそのことがかえって、大きな果実をもたらし、先の東日本大震災にいたるピースボートのボランティア活動にも生かされることになるのである。 (本文敬称略) (つづく) |
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