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評者◆稲賀繁美
マエストロの光芒――ウンベルト・エーコの思い出
No.3248 ・ 2016年03月26日
■ウンベルト・エーコとは、ひょんなことから親しくさせていただいた。80年代末に欧州でTransculturaと称する小さな仲間内の団体が結成された。ウンベルトは学術委員長、当方は泡沫会員だった。旗揚げは1987年、ベルギーの大学都市、ルーヴァン・ラ・ヌーヴ。学術団体の仮面を被っているが、実は某国の国家転覆を画策する秘密結社、というのがウンベルトお得意のご冗談だった。名誉会長にはレオポール・セダール・サンゴールを戴き、貧しい予算を工面しては、21世紀初頭まで、世界あちこちで移動学会を展開した。
中国行脚は天安門事件の勃発で数年の遅滞をみたが、これも先年物故したジャック・ルゴフも夫妻で同道した。『薔薇の名』の原作者と映画時代考証者とが手を携えて中国の奥地に一角獣を探しに行く。そんな荒唐無稽な計画に、当時は欧州共同体から真面目に旅費が提供されたのである。西安の回教寺院では象と犀の優劣が議論となった。象とはウンベルト、犀とはジャック。ふたりの巨漢の肥満体に驚愕した地元の人々が、象だ犀だと揶揄していたことに由来する綽名だった。なんのことはない、一角獣を探しに遠路遥々来てみれば、ご自身たちこそ驚異譚に登場する未知の霊獣だったと判明した、という顛末である。 敦煌からトルファンに向かう長距離列車では、車掌が我々の切符を着服して姿を晦ました。急遽宛てがわれた硬座の寝台車に辿りつくには、数輛の貨物列車の荷の上を匍匐前進で乗り越えねばならなかった。思わぬ椿事が一段落するや、一行のイタリア勢は隠匿していたウイスキーの瓶を開けてやおら酒盛りとなる。言語学者ソシュールのせいで離別を強いられたsignifiantとsignifieの悲恋。それを「枯葉」の節に乗せるお得意の替え歌から始まって、人間ジュークボックスは一晩中怪気炎。翌朝まんまと喉をやられた御大は、吐魯番では絶対安静を余儀なくされた。はめをはずすといつもああなの、とレナータ夫人がのたまい、旦那から取り上げた辛口の地酒白葡萄酒を、夜風の吹くテラスで振る舞ってくれた。 西アフリカでは、ドゴン族のバンディヤガラの谷底でむずかる巨体を、ダニ・カラヴァンと謀ってなんとか丘陵のうえまで担ぎあげたり、ネルー大学では、熱弁を振るう隣席の大先生が水 差しをひっくり返し、全身ずぶ濡れにされたり、ボローニャ大学ではラシュディの『悪魔の詩』事件について大激論になり、続く昼餐の折に、あの太鼓腹で、頭突きならぬ腹突きを食わされもした。その一方、東西情報交流についての議論でギヨーム・ポステルに言及したら、眼を丸くして「ブラボー」と褒められたこともある。いずれも従来の西欧中心史観を非西欧から180度転倒させようとする「相互人類学」anthropologie reciproqueの企ての一環だった。 ふと振り返ると、筆者自身、すでに往年のウンベルトの年齢を迎えている。あの頃のいささか無茶で野放図だが、夢とvisionに満ちた学問の青春や今いずこ。人種や国籍を超えた闊達な対話や知的刺激の交換はどこへ消えてしまったのか。1999年に奉職先で「相互人類学を超えて」という挑発的な会議を主催した。マエストロにも出席を乞うたが、日本はマスコミが煩い、と逃げられた。お話大好きの記号学者は、Minor作家を韜晦し、人跡未踏の奥地で人知れず驚異の種を蒔く。そこには、隠逸への覆い難い渇望が隠されていた。 |
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