|
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
【重要なお知らせ】お問い合わせフォーム故障中につき、直接メール(koudoku@toshoshimbun.com)かお電話にてバックナンバー・定期購読の御注文をお願い致します。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
評者◆小嵐九八郎
滅びへとゆく若者と中年への処方箋――斎藤環著・訳『オープンダイアローグとは何か』(本体一八〇〇円・医学書院)
No.3247 ・ 2016年03月19日
■三十年ほど前、義姉が何度目とかの、現今では統合失調症と、言語的規定のされている病で入院し、当時としては“先進的”O病院に見舞いに行ったことがある。話を聞こうと、長居した。二十畳の病室に十床ほどで、ベッドとベッドの間は狭く四十センチ。何より、病棟の出入口と“保護房”への扉が、当方が通算五年ばかり入った拘置所や刑務所よりも重く、固く、厳しいことに苦しかった。
病者同士の語らいもたっぷり聞いたが、何しろドクターは神さまほど。互いの話が、天気の話、食事の話、物価の話とほぼ同時に出て噛みあわず、それは、それぞれの独白に近いと感じてしまった。対話でなく、独り言。 しかし、十数年前から二度、北海道は襟裳岬の手前の浦河の『べてるの家』を訪ね、勉強し、これまた、ひどく、びっくりした。病者が、自らの辛さ、“おかしさ”、自らの病のことを正直に曝し、ミーティングの場で素材として出し、他の病者や元病者に冷やかされながら糧を得ている。かなり、野放図な活発さと何とはなしとしても未来を感じさせたのである。現役病者と退役病者同士の会話が、病の症状、仕事のこと、悩みなどで、ずれながらも噛みあっているのだ。我ら、観客・見物者・勉強者にミーティングが開示されているのも「おお」であった。 今、ある私大の文芸学科で二コマのバイトをやっている。学生に感じるのは『べてるの家』ではなくO病院の病者に似ていることだ。学生同士の話が、まるで、山へ海へ大地へと別方角で、言いたい放題、しかも、些細なことの自己主張。世界と日本の情勢も問題にならず、自らの作品のことのみの一方通行だ。 そこへ『オープンダイアローグとは何か』(斎藤環著・訳、医学書院、本体1800円)に出合った。フィンランドの統合失調症の画期的治療を主導した、薬物に頼らず、患者本人・家族・関係者、医者・セラピスト・看護師共同による「独白から対話へ」、「対話自身の力」、「直の表現と感情」を実践している大学の先生、セイックラの論文を訳し、まとめ、要を記した本である。精神病者というより、パソコンとスマホで直接性を失ってしまって、滅びへとゆく若者と中年への最もの処方箋となるだろう。臨床については、なお解らぬが。 |
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
取扱い書店| 企業概要| プライバシーポリシー| 利用規約 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||