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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑩
No.3244 ・ 2016年02月27日




■人生の運命的転換点、阪神・淡路大震災

 1993年4月、元自衛官・井筒高雄の5周遅れの大学生活が始まった。
 社会人入学を果たした大阪経済法科大学は私学であり、学費も馬鹿にならない。入学金が約20万円、授業料が初年度で約100万円、2~4年で約90万円、合計すると約390万円もかかる。
 2学年以降は、「家族で唯一の四大卒」という一家の輿望と応援をありがたくうけて親や2人の兄たちからもいくらかは支援してもらったが、基本はほぼ自力でまかなった。いくらかアルバイトもしたが、奨学金はもらわず大半は自衛隊時代に蓄えた貯金と持っていた自家用車を売却してそれに充当した。
 爪に火をともしてため込んだわけではない。自衛隊生活は風呂付きで居住費もかからない、メシも3度3度ただで食える。下着から戦闘服まで衣類も全部支給なので、自衛隊勤務の5年で車を3台乗り替えてもなお約250万円の貯金ができた。
 せっかく社会人入学してもアルバイトにあけくれては元も子もないが、皮肉なことに5年遅れの原因となった自衛隊勤務のおかげで、安心して勉学に励むことができた。
 1回生で卒業に必要な単位科目を4コマ5コマと目いっぱい入れて、3回生と4回生は教職課程取得に集中することにした。ブランクがあったのでやはり勉強には苦労した。とくに手を焼いたのは、日本語を一切つかわない語学の授業だった(第一外国語は英語、第二外国語はドイツ語)。今でも忘れられないエピソードがある。
 ネイティブの先生から英語で何を訊かれてもさっぱり分からないので、知っている数少ない英会話フレーズで「パードン、パードン(すみません、わかりません)」と連発すると、ついに先生が堪忍袋の緒を切らせて「真面目に答えなさい」と怒鳴った。井筒はとっさに「アイ・アム・ジャパニーズ・ソルジャー。レンジャー」と答えると、先生は態度を軟化させ、「英語とは長いこと離れていたかもしれないけれども、ちゃんと話せるようになる。自分も応援するから頑張れ」と励まし、英語会話はさほど上達はしなかったものの、以来なにかと親身に対応してくれるようになった。てっきり5周遅れのブランクをデメリットとハンデとばかり思っていたが、それが幸いしたことを実感させられたのだった。
 同様のことが、勉強だけでなく学生生活の謳歌にもプラスに働いた。
 同級生と5歳も違うとオジサンと子供という感じで、カラオケに行っても同級生の愛唱歌がまるでわからない。会話もかみ合わないので最初は苦労したが、このときも自衛隊生活、とりわけレンジャー訓練が役に立った。
 体育実技を普通にこなしただけで、みんなに「すげー」と感嘆され、以来一目も二目もおかれるようになった。遊びや麻雀を無理強いされることもない。改めて、レンジャー資格の威力を思い知った。
 ひょっとしたら入学していたかもしれない京都精華大学は、左翼系文化人を教員に数多く抱えることで知られ、それに惹かれて進学する今どき珍しい「左がかった学生」も多いが(ちなみに菅直人元首相の長男で不登校児であった菅源太郎は、2006年に同大人文学部に入学している)、大阪経済法科大学の教授陣はいたってノーマルだった。したがって、井筒が後に政治・社会活動をするきっかけとなるような啓発的なゼミや授業もなかった。
 そんな井筒の大学生活を一変させただけでなく、井筒の将来をも決定づける運命的な出来事がおきる。
 1995年1月17日の早朝の5時45分、井筒は大学2回生の後期試験の初日に臨む準備のために起きたところだった。
 入学当初は京都の叔父の家から通っていたが、奈良を経由して生駒山脈を越え2時間半もかかるので、2回生の途中からは、大学が民間に委託している朝晩二食賄い付きの寄宿舎に移っていた。
 と、ゆうに築二十数年はたっているオンボロ・アパートの四畳半の部屋が、何の前触れもなくものすごい縦揺れと横揺れに襲われ、井筒はたじろいで反射的に表へ飛び出した。
 寄宿生も口々に「大丈夫か、この寮ぶったおれるんじゃないか」と言いながら外で10分ぐらい様子を見てから、安全を確認して寄宿舎にもどると朝飯を食べようとしてテレビをつけた。画面に映し出された神戸の惨状に全員が箸を持つ手をとめて釘づけになった。大学へ行くと、「震災のため本日のテストは中止」と知らされた。
 同じゼミの同級生が神戸の東灘の自宅にいて被災した。他人事ではなかった。
 なんとか自衛隊で習得した災害支援のノウハウを活かしたいと思ったが、それまでボランティア活動をしたことなどまったくなく、どうしたらいいか手がかりがない。同級生たちに一緒に支援に行こうと呼びかけたが、誰からも反応がなかった。大学のキャンパスでボランティアを呼びかけるサークルや団体もなかった。
 そんなとき、1月の最後の週末の「朝まで生テレビ!」を観た。東京にいる頃からのお気に入り番組で、関西に移ってからもほぼ欠かさずに観ていた。時局柄、テーマは神戸の震災ということで、常連の論客に加えて、一番被害が大きかった神戸市長田区の支援に入っているボランティア・グループが呼ばれて、コメントを求められた。
 司会からその団体が「ピースボート」であると紹介された。1983年に辻元清美(現・民主党衆議院議員)ら早稲田大学の学生たちによって設立された国際交流NGO組織で、世界各地をめぐる「地球一周の船旅」の企画で、当時から市民運動の世界ではよく知られていたが、社会運動にはうとかった井筒には「初耳」の団体だった。「平和(ピース)のボード」ってなんだ? 頭に浮かんだのは、看板かスケートボードだった。
 ピースボートからは数人が来ていたが、そのうちの一人の女性が、コメントを終えると、ボード(ボートではない)を掲げて、ボランティアの募集を呼びかけた。
 その女性と後に結婚することになるとは知るはずもなく、井筒はボードに書かれた連絡先をあわててメモした。「朝生」が終わった後、即座に電話をすると、大阪の森ノ宮で説明会をするからと言われ、さっそく出かけた。
 それが井筒の人生の運命的な転換点となった。
 後期試験をすべて受け終えると、ピースボートが「本拠地」にしていた長田の復興支援ボランティアにどっぷりはまることになるのである。
 阪神・淡路大震災がなかったら、いや起きていても、「朝まで生テレビ!」がお気に入りの番組でなければ、現在の井筒高雄はなく、いまごろ社会科の先生をしていたかもしれない。
(本文敬称略)
(つづく)







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