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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻⑥
No.3235 ・ 2015年12月19日
■PKO協力法で退職を決意
井筒高雄は、死のレンジャー教育を修了したことで三曹選抜テストも楽勝でクリア、定年まで自衛隊員でつとめあげる道筋を確保したかに見えたが、またしてもそれを阻む障壁が井筒の前に立ちはだかった。それは「PKO協力法」(正式には国際連合平和維持活動等に対する協力に関する法律)という、それまでと比べてはるかに高く厳しい障壁だった。 ここでこのPKO協力法をめぐる議論と経緯を簡単におさらいしておこう。 そもそもPKO、すなわち国連平和維持活動が国際的テーマになった背景には、1989年のベルリンの壁崩壊で戦後長らく続いた米ソ冷戦体制がくずれ、国連主導で国際紛争を解決するスキームが必要となったことがある。その試金石となるのが、フセインを大統領に戴くイラクによるクウェート侵攻に対して、1991年1月にアメリカと多国籍軍が始めた湾岸戦争の「戦後処理」であった。 ただ、井筒はそんな動きをどこか遠い国の話と受け止めていた。他の自衛隊員もほとんどが井筒と同じだった。 井筒とその周辺にざわめきが起きるのは、1991年4月、海上自衛隊がペルシャ湾へ機雷掃討のため派遣されると決まってからだ。イラクが国連安保理決議を受け入れて停戦が成ったのをうけ、防衛庁長官が海上自衛隊に対し「我が国船舶の航行の安全を確保するため、ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理を行う」ことを目的に、「ペルシャ湾における機雷の除去及びその処理の実施に関する海上自衛隊一般命令」を発令したのである。その裏には、日本はこの湾岸戦争に総額135億ドルもの資金援助をしたにもかかわらず、アメリカを中心とした参戦国から「金だけ出して血は流さない」と非難されたことがあったとも言われる。法的にはあくまでも公海上の作業であって、「自衛隊の通常業務」という解釈がなされたが、憲法が禁じている海外派兵に道を開くものだとしてマスコミ的には大騒ぎになった。それでも井筒にはまだまだ強い危機感はなかった。 同期たちの間では、「海上自衛隊は大変だなあ、俺たちは陸上でよかった」と、同じ自衛隊にありながら対岸の火事ていどにしか受け止められていなかった。 それが「俺たちの問題」と感じられるようになったのは、翌1992年6月のPKO協力法の成立からである。前述のPKOをめぐる世界各国(とりわけアメリカ)からの要請をうけて、政府は法的整備にとりかかり、これに反対する野党との激しい攻防の末に同法は成立。これによって自衛隊は正式に国連平和維持活動に参加できることになった。 当時のマスコミは、「憲法で禁じる海外派兵にさらに向かう」と危惧する論調と、「これで国際孤児にならずによかった」と評価する論調にわかれた。 では、論議を呼んだこのPKO協力法を井筒は「俺たちの問題」としてどう受け止めたのか。井筒は現場ならではの直感から、「これはヤバイ。“犬死”になる」と確信した。政治家や自衛隊上層部が「PKO参加5原則」があるから大丈夫だと言えば言うほどに、井筒の危機感は増した。ちなみに以下が「犬死の歯止め」とされた「5原則」である。 ①紛争当事者間で停戦合意が成立 ②受け入れ国を含む紛争当事者の同意 ③中立的立場の厳守 ④以上の条件が満たされない場合に撤収が可能 ⑤武器使用は要員防護のための必要最小限に限る 一見、歯止めにも見え、そう評価する一部マスコミもあったが、現場の第一線、しかもレンジャーで実戦の恐ろしさを疑似体験した井筒からすると、歯止めにならないどころか却って犬死のリスクを増すものであった。もっとも問題なのは⑤の「武器使用制限」である。 PKOの現場は「5原則」が机上の計算通りに機能するところではない。「非戦闘地」といえども、自衛隊員が戦闘服を着て武器を携行した瞬間からそこは「戦闘地域」と化す。それなのに、⑤の「武器使用制限」の細目規定に従えば、敵が撃つまでは撃てない、撃ってきたら最初は逃げなければいけない。戦争のセオリーからすれば、それで「死ぬ」ことはあっても「生存」に結びつくことはない。さらに言うと、もし反撃をしてそれが後で「不適切」であったと判定を受けた時にはどうなるのか。帰国して殺人罪によって刑事事件で裁かれ、刑務所に入らなければならない可能性さえある。これではあまりにも理不尽で、自衛隊員の命があまりにも軽すぎるではないか。井筒は憤怒の思いに駆られた。 今回の安保法制の議論では安倍首相はさかんに「平和と安全」という言葉を使ったが、1992年のPKO協力法の時にも「平和と安全」が護符として乱発された。しかし現場の第一線へ送られる自衛隊員には「平和と安全」はさっぱり担保されず、この上ない「危険」にさらされる。井筒からすると、PKO協力法の時も今回の安保法制の議論でも政治はなにも変わっていないというのが率直な思いだ。 実際、PKO協力法の施行に伴って井筒の身に何が起きたのか。世界の紛争地へ派遣されるとなれば、真っ先に白羽の矢が立つのは、自衛隊で最強のレンジャー出身者であるのは言をまたない。案の定、呼び出しをくらい、連隊長から面接をうけ、「PKO部隊で行く気はあるか」と打診された。井筒は、「現状では行きたくない、行くのなら犬死にならないように法律や制度を整えてから出してくれ」と答えた。 PKO派遣命令を拒否して残るという選択肢はなかったのだろうか。 当時井筒は、レンジャーの資格も取り、三等陸曹の教育も受けて中隊長賞をもらい、26歳で次の二等陸曹へ、高校卒業では最年少の幹部試験にエントリーができる最短のポジションにいた。残れるものなら残ってもいいという気持ちもどこかにあった。 そこで井筒は連隊長に、「海外派遣を拒否したら、自分の昇進はどうなるか」と訊ねた。すると、返ってきた答えは、「これまでの自衛隊員としての成績も大事だが、命令に従った隊員の方がおそらく昇進は先になる、拒否した者は遅くなる」。ここで井筒の肚はほぼ決まった。今後の人生と殺されるリスクを天秤にかけると、どう考えても割りにあわない。ここで自衛隊を辞めて人生をやり直そうと。 さらにもう一つ、井筒の決意をいっそう固めさせた、自衛隊に対する強い危惧があった。それは、実力部隊としてPKOにまで踏み込むのには、組織の統率運営力にあまりにも問題があるということだった。 (本文敬称略) (つづく) |
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