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評者◆前田和男
元陸自レンジャーの社会 活動家・井筒高雄の巻②
No.3227 ・ 2015年10月24日




■円谷幸吉に憧れ自衛隊体育学校へ

 井筒高雄、旧姓宮寺高雄(改姓の経緯はおって述べる)は1969(昭和44)年、東京都青梅市郊外で生まれた。実家は青果店で、男3人兄弟の末っ子だった。
 母方は教員の家系、祖父は小学校の教員をつとめ、母親とそのすぐ上の姉以外はみな教師で、幼少時から一家の中には3兄弟の誰か一人は先生になるという暗黙の了解があったが、高雄自身は勉強嫌いなこともあり、一番勉強のできた長男がその道をいくものだと思い込んでいた。
 したがって何もなければ、高雄は、同級生の多くがそうであったように、自営業の長男であれば家業を継ぎ、二男三男であれば、当時大学進学率の急伸の流れにのって大学を卒業してサラリーマンになっていたことだろう。それがそうならずに、「異色の道」を歩むことになるきっかけは、家業の衰退と陸上競技にある。といきなりいわれても読者は戸惑うだろうから、少々先走って記すと、高雄は高卒後に自衛隊体育学校に入隊しそれが彼の人生の転機の一つとなったのだが、その最初のきっかけが、筆者の見るところ、家業の衰退と陸上競技だからである。
 まずは陸上競技について記す。
 そもそも青梅に生まれていなかったら、陸上競技に魅せられることもなく、現在の井筒高雄の人生はなかったかもしれない。
 周知のごとく青梅は市民マラソン発祥の地である。青梅市民にとってマラソンは特別の意味がある。たとえれば徳島市民の「阿波踊り」、泉州岸和田市民の「だんじり」にあたるかもしれない。おまけに一家の男たちは、父親も子どもたちも皆「駆足自慢」だった。高雄は小さいころから毎年のように父に連れられて青梅マラソンを見に出かけた。最初は旗を振っての応援だったが、長兄が高校に進み青梅マラソンに出場したのを目のあたりにしてから、兄たちに負けず劣らず「駆足自慢」だった高雄は、よし自分も出ようと陸上が人生の目標になった。まず青梅に出て、大学では箱根でタスキをつないで、そしてオリンピックで日の丸を揚げる――と「若気の夢想」がふくらんだ。
 そこで、中学でも高校でも迷わず陸上部へ入部した。井筒が入学した高校は隣の埼玉県の私立・越生(現・武蔵越生高校)。昼休みには3階から生徒が落ちてくる、通学電車では同校のコワモテ生徒だと知れると席を譲られるといった、周辺ではやんちゃな子供たちが集まる名うての高校だった。当時、青梅周辺でも、尾崎豊が代表曲の「卒業」で「夜の校舎 窓ガラスを壊してまわった」とうたったように中学・高校は荒れに荒れていた。井筒高雄は「番」を張るほどではなかったが、少々やんちゃ系であったこともあり、もし「走り納めが12月31日、走り始めが1月2日、土日も練習」という厳しい陸上部生活を3年生までやりとげていなかったら、別の「異色の道」を歩んでいたかもしれない。
 3年間の陸上漬けの高校生活の中でも思い出深いのは、1987(昭和62)年に念願の地元青梅マラソンに出場したことだった。その年の目玉は、前年のロスオリンピックの女子マラソンで銅メダリストになったポルトガルのロサ・モタが招待選手として女子10キロに出場。男女同時スタートのレースで、たまたまモタ選手のすぐ脇だった井筒は、6、7キロあたりで振り切られるまではテレビに映り続けた。結果は、モタは女子10キロで優勝、井筒は1万人を超えるエントリーがあった男子10キロ部門で十数位のゴールだったが、大いに自信を深めた。
 そして、高校卒業を前に人生最初の選択をせまられることになる。人生の夢である陸上をどう続けるか、そこで大きなハードルが待ち構えていた。家業の衰退である。
 井筒少年がそれをうっすらと感じたのは小学校5年の1980(昭和55)年のことだった。JR青梅線の隣駅に大型スーパー「西友」が進出。客をうばわれていずれやっていけなくなる、そんな親の将来への不安を子どもなりに感じ取った。
 折しも「よい品をどんどん安く」をスローガンに掲げた主婦の店・ダイエーが旗手となって始められた“流通革命”が絶頂期にさしかかる時期にあたっていた。一方、それは旧来のコミュニティに密着した小店主たちの「駆逐」を予兆していた。東京の中心に通勤する「新住民」で人口が急増していた青梅の市街地にあって、井筒の実家の家業はこの“流通革命”の典型的な犠牲者であった。
 それから5年後の1985(昭和60)年、井筒高雄が15歳、中学生のとき、コンビニの「セブン・イレブン」が青梅に初進出。スーパーに走っても日用品だけは父の店で買ってくれていた客を根こそぎ奪われることを意味していた。それで即廃業とはならなかったが、これが家業に「長期低落」のだめを押すことになった。
 そんな家庭の事情を肌で感じて、井筒少年は大学で陸上をするのは無理だと心に決めた。もし家業が傾いていなければ、学生ランナーとして箱根を疾駆、その後は実業団に進み、選手としては大成できなくてもサラリーマンとして安定的人生を送れたかもしれないが、それは見切った。
 当時、早稲田大学に進学して陸上のエリート街道をひた走っていた瀬古利彦とは対照的に、ライバルの中山竹道が高校卒業後アルバイトをしながらクロカンを取り入れた独自の練習で「反骨のランナー」として話題になっていたが、それを真似しようとしても両親には許してもらえそうになかった。そこで選択したのが、自衛隊体育学校だった。高校が埼玉県だったので、県の大会などで朝霞駐屯地にある同校の選手たちとはよく顔をあわせ、その存在と実力にはかねてからリスペクトを抱いていた。ただし、家庭の苦境を考えて大学進学をあきらめたというのは傍目には「孝行息子の鑑」に見えたかもしれないが、本人にはそんな深い思いはなかった。むしろ「渡りに舟」だったかもしれない。そもそも勉強が大嫌いだったので、勉強もせず、仕事もしなくて、給料までもらえて好きな運動競技が出来るのだったら最高だという軽い発想だった。さらに同校出身で1964年の東京オリンピックで銅メダルを取った円谷幸吉の伝説が頭に浮かんで井筒少年の肩をドンと押した。俺も国民に日の丸を振ってもらってオリンピックに送り出してもらえるかもしれないと。
 自衛隊に対するアレルギーもなかった。先に母親方には教師が多いと紹介したが、その中に共産党のシンパがいて、「赤旗祭」に連れていかれたこともあった。でも親戚の間で「自衛隊は違憲」といった「民主教育」を受けたわけではない。逆に「日の丸教育」も受けなかった。
 それでも母親は、戦争に行くことになるかもしれない、お金ならなんとかなるから大学へ行きなさいと勧めたが、井筒少年は、それを振り切った。そのときの理屈は「自衛隊に入るのではなく体育学校に入る」だった。
 しかし、井筒少年は、人生最初の大選択のすぐ後に人生最初の大挫折を味わうことになる。
(本文敬称略、つづく)







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