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評者◆秋竜山
ドキリとするタイトル、の巻
No.3226 ・ 2015年10月17日
■小谷野敦『『こころ』は本当に名作か――正直者の名作案内』(新潮新書、本体七二〇円)。ドキリとする本のタイトルだ。一般的には名作に決まっている。本当にそーなのか。どーなのか。
〈英国の文学者、チェスタトンだったか、の言葉で、「もし読んで感心しなかった作品でも、信用している人が読んで褒めていたら、もう一度読むといい」というものがあったと思うが、これはとりあえず真実で、一読してすぐ価値が分からなかったから自分はダメだ、などと思う必要はなく、プロの文学批評家でも、読み直すということはあるのだ。〉(本書より) 信用している人がいいといわれれば、「それじゃァ、もー一度」と、いうことになるだろう。が、短篇ならそれもやってやれないこともないだろうが、長篇となると、どーいうことになるか。 〈江藤淳は、漱石の「こゝろ」を十回は読んだという。あるいは「源氏物語」の専門家なら、あの長い物語を十回くらいは通読しているかもしれない。しかし私は、短いものならともかく、ある程度長いものになると、必要がない限り再読はしない。そんなに暇ではないからである。もちろん江藤淳だって暇ではなかっただろうし、忙しい人でも、好きなものは再読三読するという人もいるだろう。だが、少なくとも現代人は、一般的にはそれほど暇ではないし、読むものが多すぎる。平安時代の宮廷の人々が、あるいは徳川時代の文人が、重要な古典を四回も十回も読んだとしても、ふしぎはない。〉(本書より) 今はまだいいだろう。これからン十年後にどれだけの数を読まなければならないのか。いや、まてよ、その時代には本という形のものはなくなってしまうのか。読まなくても頭の中にはいってくるようになるのか。考えられなくもない。パッとみて、パッとわかる。と、いうような本がうまれるかもしれない。 〈ただ私の経験から言うと、一読してあまり感心しなかったものが、再読したら素晴らしかった、ということはまずない。一読してすぐ分からなかったのが、一カ月ほどして記憶の中で鮮明に蘇ってきて名作だと思った、ということはある(略)〉(本書より) パッとみて、パッとわかる、は、私はマンガでよく使う。ひとこまのマンガ。一枚マンガである。みた瞬間にわかるなど、一枚マンガ以外にはないだろう。わかるということは、パッと面白いか面白くないかである。それで、面白くなかったら、やっぱり面白くない作品ということになるだろう。小説なども、そーいう時代は必ずやってくるはずである。具体的に今、どのようなものであるかは、わかるはずがない。わかっていたらとっくに現実化されているだろう。もし今、そのようなことが可能となった時、困るのは、活字を読みながらのたのしみがなくなってしまうことだ。そして、面白いか面白くないのかも瞬間にわかってしまうということは、いったいどのようなことになってしまうのか。はたして、一枚マンガのようなことになってしまうのか。明治時代に今の平成時代を想像できただろうか。一〇〇パーセントできなかったようである。と、いうことは、瞬間小説の時代がくるということである。 |
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