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評者◆稲賀繁美
和辻哲郎『倫理学』の現代的課題へむけて(下)――アントン・セヴィリアの博士論文『空の倫理学を世界の場へ――和辻哲郎の体系的倫理学の応用・限界・可能性』を起点に
No.3222 ・ 2015年09月12日





■(承前)井筒俊彦は、道元における「不断の創造」をイスラーム神秘哲学の沃野に放つ傍ら、華厳思想における理事無碍から事事無碍を腑分けして、西洋論理学の狭い因果論の限界を、驚嘆すべき明晰さで摘出した。極めて平易な英語を駆使するこの井筒の試みも、翻訳哲学の実践として再評価する必要がある。同様に和辻の「仮面とペルソナ」は、ロベルト・エスポジトの現今の議論と交叉させぬままでは惜しい。この問題圏に先鞭をつけていたのが坂部恵だが、パース記号論に目配せした坂部の「うつし」論は、パースの並行宇宙論と交叉させれば、おのずと輪廻転生をめぐる形式論理学へと、さらに展開しえたはずである。和辻の世代は熱心にカント認識論と仏教唯識とを比較考察したが、井筒俊彦がアラヤ識を西洋哲学の土壌に移植しようとした試みも、その延長上に位置づけうる。意識の器としての身体をいかに「虚」にするかという論点は、九鬼周造がフランス語講演の日本藝術論で、岡倉天心『茶の本』を参照して説いた憑依論とも無縁ではない。そこで問題にされたhors de soiという境地は、マイスター・エックハルトの「無」としての神概念に呼応し、パウロ神学におけるケノーシス、すなわち「神の無化」とも、体験として「薫習」する。ここまでくれば、ジャンニ・バッティモやジョルジョ・アガンベンの議論との接触点も睫前となる。
 文明の吹き溜まりたる日本列島で日本語への翻訳を介して営まれてきた西洋哲学受容。その経験がこの1世紀半に蓄積してきた学識は、それに先立つ仏教思想や中華文明圏の儒教・道教思想とも大胆に擦り合わせるべき時を迎えている。皮肉にも、過度の専門化と汗牛充棟なる文献過多の弊害で、こうした潜在的可能性は、試される前から抑圧されてきた。だが狭小なる自己同一性に拘泥し、他者との交流を忌避し、自己変容を拒絶する守勢こそが、近代的自我に幽閉された悪徳だろう。自他の間隙、「間」milieuにこそ「風土性」の核心を見定めて和辻を刷新する試みには、オーギュスタン・ベルクのmesologieが知られる。
 欧州から帰国後の和辻は、謡曲、能の舞台にみる霊の憑依と自己変容の「間」を、キリスト教神学の三位一体の玄義の根幹をなすpersona概念の脱構築へと架橋しようと試みる。人格の根拠たるpersonaも、起源に遡れば希臘悲劇の「仮面」だった。その一方で和辻は、能面は死者の相を刻めばこそ生霊を宿す、とも喝破した。さらに和辻は、連歌という集団創作の宴の「間」に、人倫Sittlichkeitの場と、間柄から個が析出
するモデルを模索した。
 そもそも人倫といい、仁といい、それらは問えども再び応えぬ死者や、人間の限界を超えた超越者の沈黙と向かい合う「間」なくしては、成立しない。そんな彼方の「他者」からの合図を、ユダヤ教からキリスト教に至る伝統は、息吹ruahさらに精霊spirito santoと呼びならわした。カトリック司祭で臨済禅の実践者でもある門脇佳吉は、精霊を西田哲学の「場所」と同一視する、大胆きわまりない確信をすら表明している。これをプラトン『ティマイオス』のコーラと重ねるには、なお多くの障碍が控えていよう。とはいえ、そうした思索や実践的霊操を可能にする知的・霊的な「風土」は、すでに足下に準備されている。その土壌に鍬を入れるのをなお躊躇するのは、知的な怯懦と言わねばなるまい。
 アントン・セヴィリアの和辻論が、こうした豊饒なる冒険への道標たることを希求する。
*Anton Luis Capistrano Sevilla,Exporting the Ethics of Emptiness:Applications,Limitations and Possibilities of Watsuji Tetsuro’s Ethical System(総合研究大学院大学博士号請求論文。2015年2月22日の文化科学研究科教授会により博士号授与が採決された)
――この項おわり







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