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評者◆秋竜山
人間はもう奴隷だ!、の巻
No.3220 ・ 2015年08月29日
■盛夏の中、猛暑にへこたれることなく、アリたちはいつものように働いている。まさに働くためにうまれてきたと労働美を感じさせる。いったい、誰が、働きアリという呼び名をつけたのだろうか。そんなアリだが、百パーセント働いているわけではないことがわかったという。働いていないアリもいるというのである。働きアリのくせに、なぜ働かないのか。アリにしてみれば大きなお世話かもしれない。なまけアリという。いや、そういう正式な呼び名はあるわけではないが、なまけているアリのことである。大勢のアリの中でのこと、いろいろなアリもいてもいいだろう。なまけているアリも一生なまけているわけでもあるまい。ちょっとした気分で「働いてみようかな」なんて、労働のよろこびをみいだすかもしれない。
諸富祥彦『孤独であるためのレッスン』(NHK出版、本体一〇二〇円)で、〈一日の三分の二を自分のために使っていない人間は奴隷である〉と、いう項目がある。奴隷とはすさまじい。哲学者、フリードリッヒ・ニーチェの言葉だという。と、いうことは、人間のすべては奴隷である!! と、いうことか。第一、一日の三分の二を自分のために使うなんて、ありえないからである。 〈「あらゆる人間はあらゆる時間と同様に、今でもまだ奴隷と自由人とに分かれている。なぜなら、自分の一日の三分の二を自分のためにもっていない者は奴隷であるから、そのほかの点では、たとえ彼が政治家、役人、学者など何者であろうとしても同じことである。」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的」)ニーチェによれば、一日のうち、三分の二以上の時間を自分のために持てない人間は、奴隷以外の何ものでもないのです。この言葉を知ったとき、私は、完全な賛意をおぼえると共に、ある種、打ちのめされた気持ちがしました。(略)しかし、この基準に従うと、今の日本でどれだけの人が、自分は奴隷ではない、と言えるでしょうか。〉(本書より) 今、日本は二派にわかれている。「とにかく、いそがし過ぎる」と、「とにかく、ひま過ぎる」である。「ちょうどよい」なんていう人は一人もいないだろう。「まあ、いそがし過ぎるけど、なんの仕事もなく、ひま過ぎるよりはましだろう」と、いうところで、おちつかせてしまう。「まあ、ひま過ぎるけど、仕事でいそがしくて、その内に体がどうにかなってしまうのではなかろうかと心配するより、ましだろう」と、これ又、そんなところで手を打ってしまうのである。「ちょうどよい」なんて人はいないだろうから問題とすることはありえないだろう。とにかく、いそがしいとか、ひまだとか、過ぎるということはよくない。過ぎると問題がおこる。「時間がない!!時間がない!!」と、いつもボヤいている人が、やがて本当に時間がなくなってしまって仏さんになってしまったりする。アリはどうなんだろうか。ただ無言で(そうとしか思えない)働くか、なまけるかのどっちかである。それに対して誰も文句をいわない。こういうものはニーチェのいう自由人の部類にはいるのだろうか。 |
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