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評者◆杉本真維子
暴れだす櫛
No.3220 ・ 2015年08月29日




■知らない人が、やあ、ひさしぶり、髪伸ばしたの? と驚きの表情で駆け寄ってきた。偶然の再会に感激しているようすで、握手を求められたので、勢いで手を出してしまうと、そのままずっと離そうとしない。何かおかしい、でも、髪を伸ばしたことは当たっている。誰だっけ、と頭を大急ぎで回転させるがわからない。私の記憶が欠けているのかもしれない。
 バスは新宿西口へ向かって走っていた。最後部の横一列の座席に座っていた私の周囲から、異変を感じた乗客たちがすばやく逃げていく。ふたりだけになってしまった。
 そのひとは、自分のことを、たっちゃんと呼んだ。たっちゃんはね、これから新宿西口まで行くの。ああそうなんだ、私はその少し手前で降りるよ、なんて、平然を装って会話したのがよくなかった。手がつめたいので温めてほしい、とせがむ。子どもの年齢ではないのに、子どもみたいに、だだをこねて。それはだめだと、と手をひっこめると、執拗にこの手を追う。櫛を持ってるでしょ、ほらあの櫛、見せて、櫛が見たいの、早く! なぜ櫛が見たいのだろうか。それは、関心や疑問とは違った。私は「あの櫛」を知らない。
 すると、一つ前の席に座っていた三十代くらいの男性が、こちらに身体をねじった。そして、私の代わりに、手を差し出し、僕と手を握ろうよ、と、「たっちゃん」に言った。私の手を追うたびに、何度も何度も、じぶんの手を差し出して制止した。じわじわと何かがこみあげる。
 乗客はさらに前方へ逃げていく。バスの重心が傾きそうなほどに。それなのになぜか、私たち三人のあいだには、奇妙にあかるい空気が漂っていた。その人は、鼻水でてるよ、と鞄からティッシュを取り出して、「たっちゃん」に渡した。素直にちーんと鼻をかんでいる。ほほえましい、でもこわい。
 新宿西口の手前の歌舞伎町入口で、その人も私もバスを降りた。地に足がついた瞬間、じぶんの身体がふるえていることに気づいた。とっさにその人を追いかけ、ありがとうございました、と言った。
 その直後、少し後ろめたいような、落ち着かないものを感じた。いま口にしたお礼には、何が詰まっているのだろうか。かばってくれたことへの感謝、と一応はすぐに答えがでる。一方で、バスの車内での自分と、降りた後のふるえている自分が、まったくの別人のようで、その落差がいつまでも埋まらない。心と身体をつなげている糊、私が私であると信じるところの糊が、他者の決して修正のきかない確信によって、剥がされてしまったような違和感だ。
 なぜ櫛を見たがったのだろう。持ってないよ、と嘘を言って隠した、化粧ポーチを、鞄から取り出し、なかの櫛をじっと見た。見てもどうしようもないが、気休めのように、その場に立ち止まって見ていた。
 あの櫛とはこの櫛のことではない。そう切り捨てたとたん、誰がそういえるのか、と反射的にじぶんを突きさす声がある。所有者の手を離れ、たやすく世界を侵食していく巨大な「櫛」を思った。かたちあるものの、塞き止められない洪水のような無名性と、否定しがたい存在感が、手のなかにあった。これが暴れだしたら、私など一瞬で吹き飛んでしまうにちがいない。そんな不安を払いのけるように、私は私の櫛を、目でぎゅっと押さえこんだ。







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