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評者◆岡和田晃
「選択と集中」がもたらす暴力を脱臼させる理論武装
No.3211 ・ 2015年06月20日




■大学生だった時分、原書のニーチェ全集を部屋の書架に並べた先輩が独文科の院に在籍していた。将来を嘱望されていたものの博士号を取得せず、TOEICで満点をとり外資系の経営コンサルティング会社へ就職する道を選んだ。その決断に、ニーチェの語る「権力への意志」が大きく影響していたのは間違いない。以後、順調にステップアップを重ね、今では年収ウン千万もあるという。加藤秀行「サバイブ」(文學界新人賞受賞作)が描き出すのは、こういった人たちの暮らす世界だ。「投資系に親しい、かも知れない何か」(円城塔)を有した小説だと評されていたが――奇怪な巡り合わせからエスタブリッシュメントの生活実態を観察する機会に恵まれてきた評者に言わせれば――赤坂あたりの超高級マンションで暮らすような「投資系」と、「独文科の院」の内実に、実のところイメージされるほどの断絶はない。終盤、大手町のビル街の広場にてバレリーナになることを断念したと告白する女性と語り手とが交わす、「レナなら何でもできるよ」「馬鹿言わないで。それは何も出来ないのと同じよ」というやりとりに象徴的だが、本作はリソースの「選択と集中」(ジャック・ウェルチ)こそが「投資系」の本質だと語っており、原動力となる鬱勃たるパトスは、「宙ぶらりんの男」(ソール・ベロー)の視点で“翻訳”したほうが伝わるとの計算でもって書かれている。
 その安定感からして「サバイブ」は、『ランドマーク』(吉田修一)の延長線上にあるテクストと言えるが、とすると杉本裕孝「ヴェンジトピア」(文學界新人賞受賞作)は、『植物診断室』(星野智幸)の系譜へ位置づけることが可能だろう。『植物診断室』では「水鳥寛樹」という寓意的な名を持つ視点人物が、身体に潜む「植物の痕跡」を呼び覚ますという特殊なセラピー「植物診断」を受け――そこに逃避場所として後ろ髪を引かれながらも――既存の家族像に基づく父権的な暴力性を半ば自然に脱臼させる模様が描かれていた。街を「徘徊」しそこを再地図化していく彼は、「父親ではない、まだ名前のない役割」へと自らを溶け込ませていき、やがては「もう植物診断には行かない」と決心するに至るのだが、本作の後裔たる「ヴェンジトピア」はその反対で、生きながら植物に侵蝕される光景を「身近な〈そこ〉(neighbor)」にあるものとして描いたテクストだ。ただ、「サバイブ」が選んだ守りの姿勢を崩したことで未知なる可能性が懐胎されたかを問われれば、口ごもらざるをえない。
 その傾向は、乗代雄介「十七八より」(群像新人文学賞受賞作)に、いっそう顕著だ。「これまで小説に描かれたこともないような細部や隙間に筆先で入り込んでいく」(多和田葉子)と評された本書は、最初期の金井美恵子を彷彿させる、少女の世界をモデルとしている。だが、イタロ・カルヴィーノのような固有名が、ただ上滑りすることからも自明なように、才気を擬装した本作のカワイイ世界には装飾的な書き込みはあっても芯がない。高原英理編『ファイン/キュート 素敵かわいい作品選』(ちくま文庫)が――クリスティーナ・ロセッティから知里幸恵への流れで暗に示した――偽悪的な“啓蒙的配慮”も見当たらない。むしろ現在の金井美恵子による「書くことより読むほうがずっとむずかしい」(「子午線」)という挑発的なメッセージを、いかに咀嚼するかを検討すべきではなかったか。
 太平洋戦争下のニューギニア戦線を描く『指の骨』で話題を集めた高橋弘希の第二作「朝顔の日」(「新潮」)は、文体がもたらす情景の解像度が圧倒的で、紋切り型のエピソードをシミュラークルの弊から離脱させる膂力を感じさせる、との賛辞を与えたうえで、批評的なコンセプト設計の是非を問いたくなる作品だ。悪しき意味での文芸誌的な身辺雑記へ舞い戻れ、と言いたいのではない。「朝顔の日」の舞台は青森の結核療養所だが、途中、「話したこともない歳若い患者」が、「ついにやりましたな――。」と語りかけてきて、“帝國・遂に米英へ宣戦布告!”との報道が流れるシーンがある。これによって読者は、「朝顔の日」は『指の骨』と正対をなす作品だということを、心の底から実感するわけだ。けれども、叙述が安直なマルチメディア展開による“物語”の再生産を拒んでいるとはいえ、描写の密度に釣り合うだけの理論武装がほしいところ。青森にあったサナトリウム・臨浦園の入所者たちによる合同誌『詩集 果樹園』に収められた回想録を評者は読んだことがあるが、戦争終結後まもない時期から熱心にサークル運動が営まれていたことが記述されていた。その運動からは向井豊昭なる特異な作家や、向井恵子という質朴な詩人が育った。『詩集 果樹園』というフィルターを通してわかることは、「朝顔の日」と「戦後」を結びつける糸が――八・一五というパラダイム・シフトを考慮してもなお――不可視化されたままに終わっているもどかしさだ。
 理論武装という観点からは、木村友祐「突風」、黒田夏子「道の声」(ともに「GRANTA JAPAN with 早稲田文学」)、崎山多美「Qムラ陥落」(「すばる」)の三作品が優れていると感じた。「突風」は木村自身の過去作、すなわち「天空の絵描きたち」での高層ビルの窓ガラス清掃、「猫の香箱を死守する党」で提示されたネトウヨ的価値観による日常の席捲、「埋み火」で大々的に展開された津軽弁というそれぞれのモチーフが、いささか性急なものの戦略的に凝集されている。「道の声」は「なつかしむほどには遠のいていたのでもない静かな道をたどってきたまひるの帰郷者を、十ねんぐらいまえまでたいていの者がそう呼んでいた名がそう呼んだ」という書き出しが特に秀逸で、その時間的・音楽的な捉え難さには呆然とさせられるほかない。これらが英訳出版をも前提として書かれていることを鑑みれば、批評的意義がいっそうクリアになる。
 そして「Qムラ陥落」は、そのまま「朝顔の日」の応答になるかのような作品だ。「仕事をほったらかしにして、説明しがたい理由でもって」足を踏み入れた洞窟の奥で、たどたどしく語りかけてくる「老人というようではないが白髪混じりの髪はある程度の年配者」と出逢った語り手は、彼が暮らす壕を見て、そこが「同志たちがユンタクする憩いの場」で、「シンカヌチャーたちがこの場所に集い、コトが成った暁のQムラの仕組みや活動について丁々発止と唾を飛ばす議論の場と化すことが」あったかもしれないと想像する。Qムラとは「どこを見渡してもうす暗いだけ」の地下壕と対比される場所だが、アレゴリカルな幻想譚たる本作では、「光と鉄の豪雨」や氾濫する音と光のイメージ――沖縄戦の空襲が重ね合わされているのだろう――が不吉に侵入することで、地下壕との境界は破壊されたが、「爆発音の出処は方向さえわからない」。つまり「朝顔の日」が不可視化した問題を引き受けながら、その分節化に抗する試みが「Qムラ陥落」では実践されている。
 崎山の試みは、日比嘉高「越境する作家たち――寛容の想像力のパイオニア」(「文學界」)で論じられる「国境を超えた人と言語の結びつき方の再考を迫り、ドメスティックな公共圏に別の想像力、別の感性をもたらすもの」の範疇に、充分含まれるものだろう。人文主義的な知の破壊を目論む権力構造に対峙するには「文化外交レトリック」の活用も辞さない「私たちの存在意義をどう説明し直すか」(「日本近代文学」)を読んでも感じたことだが、日比は、ポストモダンな悪しき相対主義のシニシズムに毒されナイーヴに沈黙を余儀なくされることだけは避けようと、ネオリベラルな重力のさなかで足掻いているかに見える。「排外主義の表現に対抗する、オルタナティヴな言葉と想像力のレパートリーを、増やさなければならない」というまっとうで建設的な提言に耳を傾けつつ、なお、そこから「死の静寂に鋭く見返されて 飛び出る罪科に戦くと 神隠しされる恨みの羽音が 暗い樹間から襲いかかる 飛び去る北限のキジの腹部で 暗い地誌から憑依してくる孤独な夜のおんおんおん」(林美脉子「陰刻のおんおんおん」、「子午線」)をも聞き逃さない“したたかな”タフネスが、切に求められている。
――つづく







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