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評者◆岡和田晃
翻訳不可能ながらも、代替可能な現実とは何か
No.3206 ・ 2015年05月09日




■世界でもっとも文芸誌の刊行が盛んな国と言われる日本だが、掲載されたテクストが的確な批評を受ける機会は本当に少ない。大多数の作品はルーチンワーク的に誌面を飾り、そのまま放置されて朽ちていく。そんな悪循環を断ち切るひとつの契機を、鴻巣友季子×佐々木敦×青木淳悟による創作合評【第470回】(「群像」)は内包している。過去、自らの勉強不足をテクストの品質に責任転嫁する“知識人”の発言を克明に記録してきた「創作合評」だが、今回のプレゼンター・青木淳悟は、本時評でも取り上げた上田武弘「私の恋人」、津村記久子「牢名主」、酉島伝法「三十八度通り」の輻輳するテクストを、それぞれ粘り強く一本の線に織り込んでいく。読み手に「青木淳悟という作品が生成されていく場に居合わせているよう」な感興を与えつつ、分析的な欲望を惹起しそれに応えていくという意味で、立派に批評たる要件を備えている。こうした要件はむしろ「基礎教育」なのだと語るのが、星野智幸×都甲幸治「世界とマイノリティ」(「三田文學」)だ。ここでの「わからないから、ある程度時間をかけて体をなじませる」営為を日本の批評は排除してきた、との指摘は無視できない。そのうえで、韓国の女性批評家に「なんで日本には女の批評家がいないんだ」と問われた逸話から、「いろいろな女性に尋ねたけれど、批評の世界は男の既得権益化が進んでいて、その中に入るとものすごく嫌な目に遭うので、みんなちょっと足を突っ込んで、馬鹿らしくなってすぐやめ」るのだと言わざるをえない悲しいまでにギョーカイ的な現実について、文芸誌上できちんと言及がなされたのは珍しいことだ。
 こうした状況を考慮すれば、多和田葉子訳のカフカ「変身」(「すばる」)は、むしろ批評の文脈で理解すべきだろう。戦前の軍国主義から現代のネトウヨに至る排外主義の典拠とされてきた建国神話を、カジュアルで相互干渉的に脱神秘化したのが池澤夏樹訳の『古事記』(河出書房新社)だったとすれば(池澤夏樹×山本貴光「古事記のインターフェイス」)、多和田葉子の翻訳は、誰もがすでに読んでいる教科書的なテクストの毒を改めて強調することで、その痛々しさへ「ある程度時間をかけて体をなじませる」ことを促すものである。既読者の“再読”が前提となっているのは表題からも自明だが、「寝台のなかで自分がばけもののようなウンゲツィーファー(生け贄にできないほど汚れた動物或いは虫)に姿を変えてしまっていることに気がついた」と切り出される多和田の訳は、「余剰によって人間をはみだしてしまった語感」が異物のように保持されている。あえての音訳に象徴されるような原作との「不整合性」を追及する姿勢は、「翻訳不可能なもの、意味の再現を不可能にしているものこそが翻訳を要請し、翻訳を可能にしている」(内村博信『ベンヤミン 危機の思考』)というベンヤミンの翻訳論が前提となっているに違いない。けれども、評者と多和田訳の是非を語り合った際に翻訳家の増田まもるが、「ウンゲツィーファー」で躓いてしまったがゆえ、訳全体から訳すことと読むことの愉しさが剥奪されてしまっていると見抜いたように、中途半端なまま終わった感は否めない。「世界とマイノリティ」ではジュノ・ディアスの『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』を具体例として、「「俺の翻訳」みたいな支配意識」や「訳者のカラー」を取り払った「複数の声」としての翻訳が語られたが、そうすると「変身」は――なぜカフカなのか、そして多和田葉子とは誰か、という――原理的な問いをカッコに入れることで成り立っているのが見えてくる。これは阿部賢一が「ブルノ=アンダーグラウンド?」(「すばる」)でプラハに次ぐ「チェコ共和国第二の都市」としてのブルノが有する「「一番」になることがけっしてないという侮蔑的な」歴史的背景の意味を、音楽家ヤナーチェクの「日常の声にやどる旋律」を介してコンパクトに描いたのと対照的だ。
 諸言語が交換不可能な排除しあうものであったとしても、「志向されるもの」のもとで相互補完的に調和する、というベンヤミンの翻訳観を多和田は疑わなかったわけだが、藤谷治「ウルチロイックのプーシキン」(「新潮」)は、「志向されるもの」という方向付け自体への違和を、赤裸々に記録したという点での新しさがある。韓国で開催される文学会議にて「文学と民族のアイデンティティ」というテーマでの講演を依頼された日本人作家の渡航滞在記という体裁の本作だが、語り手はヘイトスピーチを「実際に目にしたことはない」と書いてしまうほどに世間知らずで、「僕は小説家です。悩むのが仕事です」と平気で発言してしまうくらいに無教養な人物だ。金石範ら「在日朝鮮人文学」の苦難を知る読者にとって、本作は許しがたいほどに微温的だろうが、『氷点』を愛読する韓国人清掃夫や「韓国とロシアの友好を記念して建てられた」プーシキン像といった、映画『グッバイ、レーニン!』(ヴォルフガング・ベッカー監督)を彷彿させるガジェットのハリボテ感は、あざとさすら感じさせるほどに巧みで、「近代文学の終り」(柄谷行人)によって到来した“イデオロギー・フリー”な文学環境の内実を活写しているように見える。
 このデラシネ的な感覚を推し進めたのが馳平啓樹「自由の国」(「文學界」)だろう。「会社がここに工場を建てた。間抜けな僕らが送り込まれた。行けと言われたから来たのだ。他に何もない。単純な話だ。観光に興味はない。今の暮らしそのものが旅だから。異文化はあと一ミリも受け付けない」と簡潔明瞭に語られる、中国に単身赴任して工場労働の現場で働く語り手の生活実態。それをリアリズムに徹して描写していけばいくほど、高度経済成長期における日本の工業地帯が二重写しになってくる。「アメリカが百年で消費したセメント量をこの国は三年で使った」と語られるネット上の都市伝説が事実かもと信じたくなるくらいに生活は悲惨で、「モヤがひどい。鼻孔に纏わり付く。ざらついている。煙臭くて嫌になる」と浮遊粒子状物質を語る様子が生々しい。やがて、「中国でも日本でも」ない「どちらでもない空間」で生き「国籍を捨てたと思」うような境地に語り手の認識は至るが、これは辻原登「渡鹿野」(「文藝」)で描かれる「記者から風俗嬢へ、ミイラ取りがミイラになった」デリヘル嬢が、「周囲七キロもない小さな島」である奥志摩の賢島へと流れ着くのとちょうどパラレルだろう。風俗産業と漁業で成り立つ土俗的にして神話的な場所で暮らしながらも、「いつもどこかから見張られている」。そして、この「見張っているのは、人じゃないかもしれない」という感覚は、藤野可織「テキサス、オクラホマ」(「文藝」)にも共通するものだ。「人間の友達に飽き飽きしてしまった」ので、無人航空機専用の保養所で清掃員のアルバイトをする女子大生・菫。「ドローンが私たちの戦争を実行し、ドローンが天変地異を察知して私たちに警告」し病巣の除去や下位の機械の生産にまで応用される技術的特異点到来後の日常においては、互いに監視し合う恋人でさえも、ドローンで代替可能なものとなっている。柳瀬善治は「サブカルチャー批評の現在と未来――三・一一以後のサブカルチャー批評は何を表象すべきなのか」(『日本サブカルチャーを読む』〈北海道大学出版会〉)で三島由紀夫を引きながら、技術の時代における情報環境の変容がもたらす透徹した「(偽の)崇高」とベケット的な「消尽」の感覚を「資本主義の逆説的な帰結」だと断じたうえで、オタク的サブカルチャーの席捲がもたらした「新しい平滑空間」を、ドゥルーズ的な“「襞」「空隙」そのもの”として非ネオリベ的に奪還し直す必要性を論じていたが、官邸ドローン事件の狂騒からしても明らかなように、柳瀬の文脈で“炭鉱のカナリア”的な予見性をもって“複数の「襞」「空隙」そのもの”が書かれるとしたら、「テキサス、オクラホマ」のような形をとらざるをえない。
――つづく







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