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評者◆ベイベー関根
高野文子の政治性について
ドミトリーともきんす
高野文子
No.3204 ・ 2015年04月25日
■まあ何にせよ、高野文子の12年ぶりの新作が出たんなら、取り上げないわけにはいかんだろ。ちゅうか、これが出るまでこの連載続けててよかった……。
その新作、『ドミトリーともきんす』。発売当時、神保町であっという間に売り切れになっちゃったのも今となっては懐かしい思い出よ。ていうか、明らかに初刷りの部数が少なすぎでさ、版元、高野文子をナメすぎなんじゃないの? 本書の内容は、ものすごく乱暴にいえば、朝永振一郎、牧野富太郎、中谷宇吉郎、湯川秀樹の4人の日本の自然科学者のキャラクターとそのことばを紹介し、科学の目の面白さを読者に伝えようとするもの。 新鮮な目でものごとを見ること、想像力をかきたてられること、なぜそうなるのか頭を悩ませること、そうした所作が絵本のような味わい深すぎるタッチと、不思議なテンポ感をもって綴られる。科学者たちはおおむねナイーヴな人物として描かれ、引用される彼らの文章も、ほとんどはごく啓蒙的なエッセイから引かれていて、科学を身近に感じられる作りになっている。 ふーん、と思うでしょ? 実は、この作品については、あとがきはじめ、珍しく高野さん自身があちこちでコメントされているので、ちょっととりあげにくいところもあるんだけどさ、「乾いた涼しい風が吹いてくる読書」とか「自分のことから離れて書く」とか。 みんなそういうとこばっか読んで安心してるけど、この本はもっと政治的なもんなんじゃないかと思うんだよな。本書のために書き下ろされたプロローグには、朝永が日本の原子力開発に携わった科学者たちの姿を描いた『プロメテウスの火』が、その責任を問うていることについてふれている。おそらくこの連載は、アレを経て、当初のコンセプトに若干の変更が加えられて始まったものなんじゃないかな。 それをふまえてこの本を読み返すと、それぞれの断片が、こうした時代に、科学のはじまりにもう一度立ち会い、最初からやり直すことをめざして集められているのがわかってくる。 実際、ここで引かれている科学者たちのことばから伝わってくるのは、素人に対する上から目線の押しつけがましさではなく、むしろ原初の科学に常に立ち戻ろうとする痛々しいほどの誠実さだ。人のあり方と世界のあり方が交叉する地点で語られる科学は、湯川秀樹の詩にも窺えるとおり、詩にも似ていれば、哲学にも似てるんだよな。 そのナイーヴさを失った科学が生み出したものは、いうまでもなく現代文明であり、とりわけアレであり、また戦争でもある。この本の柱のひとつは、明らかに科学する心と戦争との微妙な関係でもあって、人間の同じ罪を扱っている点では、本書は裏『風立ちぬ』(宮崎駿)だともいえる気がするね。この本は一見人畜無害な科学への招待のようだけど、高野さんなりの渾身のプロテストだと思ってた方がたぶん間違いないぜ! |
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