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評者◆清都正明(東京堂書店神田神保町店)
私という感覚器官、カラダという宇宙
カラダという書物
笠井叡
No.3204 ・ 2015年04月25日




■生き物を構成するカラダ。世界を感覚・経験し、再構成するために必要なツールであり、生物学的・文化的カテゴリはあれど、世に一つとして同じカラダを持つものはいないという意味で、極私的で曖昧模糊とした物質。しかも自分の所有物である筈のこのカラダは、しばしば我々を至上の恍惚へと導きながら、同時に奈落の底へと突き落とす振り幅と強度をもって「私」という意識を揺さぶってくる。
 体ではなくカラダ。通常、社会生活を行うにふさわしいところまで成長すると、人は意識的に働きかけることをやめてしまうが、働きかけをやめない限り無限に成長変化していくというこのカラダとは一体何なのか。舞踏家であり、シュタイナーを始めとする神秘学に精通した著者が開陳する「カラダという書物」の読み方は、我々の身体と言語に向きあう態度をも一変、生成変化させてくれる。
 文字化され言葉が「意味」に束縛される以前の「語る文化」において、一つに融合していた舞うことと語ること。言葉とカラダが一体となる領域ではじめて「文化が創出される力」が誕生してきたという。しかし時代が進み、人間は他の動植物とは違う「触覚」を持つがゆえ、カラダを意識した瞬間からカラダの中に幽閉されてしまい、言葉とカラダが隔離された状態におかれている。魚のようにカラダへの無意識ゆえ、自らのカラダの在りかが「海の青」へと拡大され、同時に「海」という生命体の感覚器官でもあるような環境世界との調和を失っている。人間のみが自分自身のためだけに外界を知覚する等身大のカラダを作り上げてしまった。だからこそ人間がカラダから真に解放されるためには、飲酒や薬のような意識の鈍化へ向かうのではなく、能う限りの意識の白熱化、意識の極限の地平へ向かうことで「カラダの原点」が立ち現われてくるという。
 言葉が人と人、人と物との間に、意味を伝える以前に作りだしている「生命の流れ」。経験的「判断」不在であるがゆえ自己がそのまま「世界を映す鏡」である、赤ん坊の持つ「純粋感覚」。これらは戦争を続け傷つけあう孤独な個人身体を超えた、あらゆるイマジネーションが可能態として融合する宇宙身体の徴として描写され、人間が宇宙の感覚器官として「生命の海」を泳ぐための新たな発声・呼吸法(鰓呼吸の概念)が導入される。
 芸術創造の根源は無から有を生み出すこと。それには有から有という現実原則を超えねばならない。作者と作品が一体となったダンスという芸術は、「身体の芸術」というよりも「意識の芸術」として、著者が披露する長年の研鑽による思考・言葉がカラダの可能性、自由で純粋なカラダの哲学を我々に開示する。
 「私は死にたいと思っても体は生きたがっている」。抑鬱的だった10代の私は、理不尽に人から刃物を向けられた経験から、それを一つの真理と思い今に至る。体の痛みとは生の希求のことだと思う。災厄に見舞われてぼろぼろになっても恐らく体は生きようとすることをやめない。そこには何かがある。私は様々な人や物、私以上の何かの恩恵によって成り立つ自分の体とそれらとの関係性を想い、その潜在的な力を識りたい。そう意識することが多くなった。生きることへの交渉をめぐって我々は数々の土壇場で言葉を失い、髪を振り乱し、動かない足を上げて乱舞せざるを得ない舞踏家なのだとしたら、言語が身体・芸術と闘いながら調和していく本書のエネルギーと目指す高みは、「私」という孤独な身体を相対化し、自らのカラダをより深く愛するよすがとなると思う。ご一読あれ。







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