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評者◆岡和田晃
資本主義の臨界点と「動物」的な人間
No.3202 ・ 2015年04月11日




■文芸時評は文芸誌の掲載作品を扱わねばならない、という縛りがある。この国のジャーナリズムにおける文芸誌の定義は“純文学”の雑誌を指し、そこから中間小説やジャンル・フィクションは基本的に排除されている。かようなセクショナリズムの弊害は枚挙に暇がない。一方で、文芸誌に発表する限り“エンタメ”としての自律性よりも作品本体の批評性に目が向けられやすい、という側面もある。つまり文芸誌は、商業作品であることの桎梏から相対的に解放されている。かつて、その解放は幻想で文芸誌とは「不良債権」にすぎないのだと難癖をつけた批評家がいた。だが“売れるお約束”に従い、SNS的なものを駆使し読者を囲い込んでも、今では“エンタメ”も“純文学”も実際の売れ行きに大差ない。ならば、文芸誌が有する状況への「応答の早さ」は、明確なアドバンテージとなるだろう。そこを取り出し、カンフル剤として活用できないものか。
 今月、この「早さ」をもっとも感じさせたのは、ジョナサン・リテル「『人質交渉拒否』では政策と呼べない」(上岡伸雄訳・解説、「すばる」)だった。イスラム国(ISIL)のようなテロ組織へ捕虜の身代金を支払うことは彼らへの資金援助になってしまう、という前提のもとで行動してきたアメリカやイギリスの方針に、湯川遥菜と後藤健二がISILに捕えられた際の日本が追随したのは記憶に新しい。このような姿勢をリテルは、「交渉に応じれば相手はさらに人質を捕まえようとするが、交渉を拒絶すればそれを防ぐことができる」と主張するものだと断じ、そこには各種の「論理の飛躍」があって政策とすら言えないのだと批判する。「人質に取られるのは個人だけでなく、ある意味で社会全体」だとすれば、強硬姿勢を貫き「大規模な軍事介入」を行なうことは、憎悪と暴力の連鎖に入り込むという意味で、「交渉による解決を導いた場合よりもはるかに高くつ」く。
 「テロと格差が一貫して話題になり続ける」という意味で、浅田彰+中沢新一+東浩紀「現代思想の使命」(「新潮」)も「早さ」を示した企画かもしれない。「メディアのリズムがますます短絡的にな」るなか、「富の再分配やインターネットの整備だけでは決して解決できない問題」こそを批評は扱うべきだと結論される。その心意気やよし、とはしたいものの、「抽象的な議論」を装った粗雑な放言が散見されるのはいただけない。「いまヘイト・スピーチ規制の対象とされるものはマジョリティのマイノリティに対する(たとえば日本人の在日朝鮮人に対する)ヘイト・スピーチでしょう。しかし、マジョリティとマイノリティの関係というのはいくらでも揺らぐわけじゃないですか」という発言に顕著だが、「日本人」と「在日朝鮮人」の非対称性が、どうすれば「いくらでも揺らぐ」のか。このレベルの矛盾すらスルーする「マイルドなニヒリズム」は、今や完全に時代遅れだ。
 上田岳弘「私の恋人」(「新潮」)は、その種の「マイルドなニヒリズム」と切り分けて読んでこそ、狙いを的確に把捉できる作品である。本作では、テロリストへの身代金を「先方が驚くほどあっさりと支払ってしまえばいい」、人命を優先した結果として「経済システムが崩壊するのならば、資本主義社会の終わりとしては上出来だ」と書かれているが、それが暴論に見えてそうでないことは、リテルのエッセイに書かれているとおりだ。あからさまに自滅的なISIL的なものの台頭は、資本主義の臨界点・文明史的な行き詰まりを体現するものだと、本作はスケールの大きな語りで伝える。クロマニョン人だった「一人目の私」、ダッハウの強制収容所で命を落としたユダヤ人である「二人目の私」、彼らの記憶を継承し現代日本を生きる「三人目の私」。このように多層的な「私」と、彼が時間を越えて思慕する「純少女―苛烈すぎる女―堕ちた女」という神話的な三面像を保持する女性とが、本作では対置される。彼らを取り結ぶ情念こそが、「アフリカ大陸で発祥した人類がこの惑星に行き渡った」グレート・ジャーニー(偉大なる旅)の駆動力だったのだろう。しかし、それを反復した「行き止まりの人類の旅」は、大航海時代に始まりホロコーストで終わる。ならば三周目の旅は、時間に抗い、正しさに抗い、神に抗うところから始めねばならない……古川日出男『南無ロックンロール二十一部経』にも通じる、「物事はいつか反転する」という確信とともに。密かに挟みこまれた「ケプラーの憂鬱」(ジョン・バンヴィル)が、縦軸として、そのことを傍証する仕掛けになっている。
 「私の恋人」は、H・G・ウェルズが『宇宙戦争』で描いた「絶滅の戦争」から出発しているが、佐藤哲也『シンドローム』(福音館書店)は、『宇宙戦争』もその内に含まれるだろう「コージー派の侵略・破滅SF」(山岸真、牧眞司)の系譜を批評的に咀嚼しつつ、「歴史」と現在を問うた作品だ。この「歴史」とは、歴史修正主義の正当化にしばしば用いられる、それが「物語」であると居直る類の「歴史」ではない。「(注‥事実という)空白の空間を包み込む網目状の構造」(佐藤亜紀『小説のタクティクス』)に、『シンドローム』は、実証史学的なアプローチとは別個の正確性をもって接近しようと試みている。巧妙に仕組まれた文章配置、トーベ・ヤンソンの昏さを引き継いだ西村ツチカの挿画、トーマス・ベルンハルトばりの「国語」への激烈な非難……といった方法で――9・11を経たスピルバーグ監督が映画版『宇宙戦争』で示したような――「例外状態」(カール・シュミット)に生きる人々の「顔」の不在を浮き彫りにする。
 「例外状態」への対峙の仕方。それを坂口安吾という固有名を通して明快に整理したのが、宮澤隆義『坂口安吾の未来――危機の時代の文学』(新曜社)だろう。宮澤は、安吾が盛んに読まれた時期とその読解方法を、戦後終結後の混乱期(作家論的読解)・学生運動の最盛期(実存主義的読解)・冷戦終結後の国際体制の変動期(他者論的読解)に区分したうえで、それらの蓄積を引き継ぎつつ、現在の「危機」に際して安吾をどう読めばいいのかを再検討していく。なかでも、第一次五カ年計画を通して「新しい人間」が誕生するという旧ソ連の言説に対して失望した安吾が、「動物」的な人間が環境を通じて進化するというルイセンコ主義への批判精神を――日本的ムラ社会の「不文律」とは異なる――「新たな生存を可能にする」ための「表現の『発明』」に応用した、という指摘は重要だ。これは木村友祐+飯田基晴「動物は見ている」(「すばる」)に出てきた、3・11後の警戒区域内で生きる牛たちの目線(木村友祐『聖地Cs』)が意味するところの確認にも通じる。栗田有起「抱卵期」(「文學界」)は、不妊に悩む他人の卵子を胎内で育てる女性をリーダブルに描き、人間の「動物」性を軽快に取り出してみせた。津村記久子の「牢名主」(「群像」)は、境界性パーソナリティ障害を彷彿させる「アドリアナ・スミス群」なる架空の(?)病と、自助団体に出入りする人たちの葛藤を通して、自らの「動物」性を棚上げさせられてしまう人間の不条理を描いていた。
 そして今月の白眉は、「皆勤の徒」でグロテスクながらも耽美にミュータントの日常を描き、人間と「動物」の二項対立どころか、既存のポストヒューマニズム概念をも解体させてしまった酉島伝法(岡和田晃「酉島伝法『皆勤の徒』――〈日本的ポストヒューマン〉の脱構築(デコンストラクション)」)だ。その最新作「三十八度通り」(「群像」)は、文芸誌的な「不文律」に限界レベルで挑戦した野心作だった。独特の造語感覚はそのままに、世界の因果律が文芸誌的な「リアリズム」を完全に超克している。つまり、錬金術や魔術、占星術のようなオカルトめいた法則で私たちを取り巻く日常が再構成されたらどうなるか、という人を食った思考実験がなされたのだ。語り手の住むマンションの側には「胴体の幅三十m、尾の先までの全長は十五kmにも及ぶ途方もなく巨大な龍が伏して」いる。その鱗は浄水サーバーに使われるというのだ(!)。このように壮大な夢想と腰砕けな落ちが風景描写や会話のあちこちに居心地悪く同居し、読み手は言葉を失う。「物語」の枠組みで削ぎ落とされるものをミニマリズムにより掬うというのが既存の「リアリズム」だとすれば、本作はその縛りを完全に受け入れたうえで、「銀河が整列して{次元上昇}が起きつつ」あるという異形の世界像を提示してみせる。読者の常識を撹乱し、人間理解を更新、原理的な意味での「異化」をもたらす「表現の『発明』」。これじゃあ芥川賞はとれないだろう……が、本作の衝撃を前に、そんなのは些細な話である。
――つづく







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