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評者◆内堀弘
鯉春の鯉――明治時代の絵馬屋の名残
No.3200 ・ 2015年03月28日




■某月某日。「変わったものを買うね」と言われた。それが絵馬の肉筆画集だったから、「そんな可愛いものも買うんだ」と仲間内から冷やかされたのだ。神社などで祈願するときの絵馬だ。戦時中に宮尾しげをが私家版で出している。宮尾は明治に生まれ、昭和初頭にヒットした漫画家で、趣味人としても知られた。
 『鯉春之絵馬』と題されたこの本は、宮尾しげをが編集したもので、彼の作品集ではない。序文にこうある。明治三十年代に、今井春吉という男が吉原で焼き芋屋をしていた。絵心があり、鯉を描かせると抜きん出ていて「鯉春」と呼ばれた。浅草で絵馬を描いて商いをはじめる。息子の貞も親父を手伝い、こちらは凧絵が上手で「凧貞」と呼ばれたが、明治末年に二人とも相次いで亡くなる。無名な親子の、風のような物語だ。
 鯉春の絵馬を、奥さんが見よう見まねで描いていたが、震災で亡くなる。それでも鯉春に絵馬の注文が来るので次男が引き継ぎ、下谷金杉町の二階で細々と続けていた。絵馬屋組合(そういうものがあったらしい)にも入っていなかったので、やがて板の配給もなくなり、いよいよ立ち行かなくなる。それが戦時中のことだ。
 宮尾は鯉春の名残を留めておきたいと、次男の一正に絵馬の揮毫を依頼する。届いた絵馬の画は十七種で「まだ何種かあるが、かれこれ一年以上経つが出来てこない。画料は呑み料になってしまったらしい。ひとまずここに一冊としてみる」とある。こういう文句がしみじみと滲みる。
 そこに昭和十九年六月とあるから、一年も経てば下町の一帯は空襲で灰となった。私はこの一冊を買って、鯉春について調べてみた。といっても、ネットで検索をかけたのだがカケラも出てこない。焼き芋屋から絵馬屋になった鯉春の仕事ぶりが、やがて人の記憶からなくなっていくのを、宮尾は寂しく思ったのだろう。たしかに、街が焼け、戦争が終わり、それから七十年も過ぎればこの物語の跡形だって残っていない。でも、古本屋をやっていると、そんなものに不意に出会う。それが嬉しい。和本仕立ての表紙をめくると鯉の絵がある。浅草鯉春の鯉は、ほのぼのとしていた。







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