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評者◆岡和田晃
人を「笑いながら殺せと叫ばせる」もの
No.3198 ・ 2015年03月14日




■文芸時評を担当することになった。現状、あらゆる領域における時評の役割はSNS的なものに取って代わられている。「動員」の言葉こそが時評の品質だとみなされているわけだ。即時的に馴れ合って互いの“繋がり”を確認することに、少なくない読者は本質的なものを見出している。そうした環境を商売の論理が――外側から囲い込みをかける形で――強固に正当化させていく。だが、批評の言葉は本来的に、それら入れ子式に複雑化したタコツボの外側へ読む者の視座を位置づけるもののはずではなかったか。そのことでコンフォーミズム(画一主義、順応主義)の環から逃れ、十年一日のごとく繰り返される議論の堂々巡りとは、別個の「場」を模索していくこと。今回の連載では、文芸誌というリソースを再編成する勢いで、オルタナティヴな「逆襲」を模索していく。そのためには、文芸誌の外部にも積極的な目配りを行なう所存だ。
 というわけで、まずは李信恵『♯鶴橋安寧――アンチ・ヘイト・クロニクル』(影書房)。本書は、在日コリアンの女性ライターである著者がネット右翼(ネトウヨ)やレイシスト団体「在特会」等が引き起こすヘイトクライムと対峙する模様を、ユーモアを交えつつ赤裸々にレポートするというものだが、語られる内容は壮絶で、現在生産される大多数の小説よりも、時代の病理へ鋭く切り込んでいる。そしてこの作品が引き受けた、ネトウヨ的なものが「リアルを侵食」するという言説やメディア環境の荒廃に対し、文芸誌が前提とする「リアリズム」の枠組みは、まるで無頓着であり続けていると言わざるをえない。本書で彼女は「在特会の会員や行動する保守の人々」が、「誰しも人間味があってどこか魅力的だったりもする。そんな人々が、私たちを笑いながら殺せと叫ぶ」ことの恐ろしさを告発する。文芸誌的な「リアリズム」は、その「人間味」を描き出すことに傾注するあまり、人を「笑いながら殺せと叫」ばせる要因との対峙を避けてきた。
 「早稲田文学」の特集「悪から考える「超道徳」教育講座」は、このような状況への応答として読める。なかでも柳下毅一郎の「SFの中に悪は存在するのか?」が重要だろう。この論考で主題として詳細に論じられる「相対化が徹底した小説だけが読者に衝撃を与えられる」云々はいかにも古めかしい。けれども、冒頭で批判的に取り上げられる「およそ悪というものについて、もっとも悩むことなき作家」H・P・ラヴクラフトにとって、「悪は生理的嫌悪感と結びついて」おり「性的な存在」であること、という指摘は明晰でアクチュアル。ラヴクラフトの作品はレイシズムを内包しているが、だからこそ「魅力的」でもある。その現代性から目を背けてはならない。倉数茂は「〈おぞましき母〉の病理 日本型レイシズムについてのノート」(『アイヌ民族否定論に抗する』、河出書房新社)で、ラカン派の理論を引きつつ「レイシストたちの罵倒がつねに帯びている下卑た性的ニュアンス」や「ほとんどストーカー的といいたくなる莫大な情熱」のリビドー性を分析している。つまり李信恵は「在日」かつ「女性」であるがゆえに、「差異のレイシズムがセクシュアルな心的要素と結びつ」いた暴力を引き受けざるをえなかった。
 この種の「本質的に性的」な「我々の心のエコノミー」に自覚的で、そこから主体を出来る限り引き離していこうとするのが、北野道夫「旅の終わり」(「文學界」)である。磯〓憲一郎『終の住処』での圧縮された時間を丁寧に解きほぐしていったような読後感だが、固有名を排したデラシネ的な崩壊感覚はむしろ『黄色い雨』のフリオ・リャマサーレスに近いかもしれない。二人称と一人称をゆるやかに往還させながら、磨かれた安定感のある文体で届けられる“死者の声”。それは、いとうせいこう『想像ラジオ』が安易に身を委ねてしまった俗情を静かに拒否しているようにも見える。「旅の終わり」は文芸誌的な「リアリズム」を更新しようとする野心を感じさせるが、その核にあるのは「金髪や薄い目鼻立ちとは対照的な、黒々とした濃厚な陰毛が現れ、微かに酸っぱい匂いがここまで漂ってくる」ようなエロティシズムで、それにより読者は「欲情する代わりに涙を流」すような不思議な体験をする。本作は私たちの身体と結びついた動物的なものが、必ずしも絶対ではないと訴えかけているのだ。
 この観点から読むと興味深いのが、雅雲すくね「就職運動酩酊記」(「早稲田文学」)である。デビュー作「不二山頂滞在記」以来、活字では十年ぶりの新作となる本作は、「不二山~」と事実上の対構造をなしている。「不二山~」では「空虚な中心」(バルト)としての富士山にある神社で短期のアルバイトとして暮らしながらも、どうしても「母の身体」(クリステヴァ)に同一化できない語り手の様子が、飄々とした文体をもって描かれていた。「就職運動酩酊記」では――そのようなモラトリアムではなく――偶然性を装いながら大学の神道学科の道を選び身を委ねる様子が、見てきたような嘘をつく絶妙なバランス感覚をもって描出されている。この作品が「脱力系」なる羊の皮を被っている意味は、ネタではなくマジで考えるに値する。青木淳悟の「匿名芸術家」(「群像」)もまた、デビュー作「四十日と四十夜のメルヘン」と対構造をなしている。「四十日~」は単行本に収められる際に全体の約二〇%が削り取られ、ラヴロマンスが強調されるかわりにマニエリスムの要素が全体的に薄められた(岡和田晃「青木淳悟――ネオリベ時代の新しい小説(ヌーヴォー・ロマン)」)。後に出た文庫版では、その傾向にさらに拍車がかかっている。結果として文壇での評価は高まったものの、作品がもつ解釈の複数性は否応なしに薄れてヌルくなった。「匿名芸術家」は、そのリベンジとして読める。幾分かのずれを懐胎させつつ、「四十日~」の前日譚を描き出すものだが、ここで用いられる技法が「パピエ・コレ=貼り付けられた紙」に由来するとの示唆がなされていることは見逃してはならない。「現実の断片性」を失わずに、芸術の「構成要素」ともなる「両義的モチーフ」を積極的に導入し、すでに評価が定着したデビュー作をも含めた自己の全作品への「再読」を促す仕掛けを意味するからだ。その技法の特徴は、抽象性を維持した観念としての音楽を追求した「新しい小説」であるヴィエラ・リンハルトヴァー「あらゆることにまつわる話」(阿部賢一訳、「すばる」)と並べて読めば、いっそう鮮明になるだろう。
 杉田俊介の「ジェノサイドについてのノート――リティ・パニュ、ジョシュア・オッペンハイマー、伊藤計劃」(「新潮」)は、伊藤計劃の想像力の核心がジェノサイドと自らを地続きのものとして置こうとする部分にほかならないとし、彼が「差異のレイシズム」の帰結としてのジェノサイド的なものを「ここ」(here)から「あちら側」(there)へ切り離すことをしなかったという重要な指摘をなしている。ここは、SNSにあふれる近視眼的で幼児性に満ちたラノベ系の自称伊藤読者がしきりに否定の身振りを繰り返す部分でもあって――あの醜悪なアニメ化企画に象徴されるように――SF文壇がしばしば、商業性で覆い隠そうとする「危険なヴィジョン」(エリスン)にほかならない。そして杉田は「消費欲望や娯楽にまみれた身近な〈そこ〉(neighbor)」へ、ジェノサイド的なものを「生々しく切り返そうとした」とも述べている。ここまでは素晴らしいのだが、杉田は伊藤計劃の遺した作品を、なぜか俗化した私小説のように読み解いてしまう。その過程で、“人間”としての伊藤計劃以上に伊藤計劃的であるはずの“作品”は「SF的なエンターテイメント」の範疇で相対的に矮小化される。つまり杉田自身が、同世代であるはずの伊藤計劃を、すでに「歴史化したもの=ここから動かないもの」として捉えてしまっているのだ。雅雲すくねや青木淳悟とは異なり、伊藤計劃はもはや自らの手で作品を書き継ぎ、それを新たに蘇生させることがかなわない。とすればむしろ、旧作とリンクした雅雲や青木の新作を読むような視座をもって伊藤計劃を読み、その営為を通じて「世界内戦」(シュミット)下の内在的論理を認識し直す姿勢こそが必要なのではないか。
――つづく







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