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評者◆山崎望
「奇妙な」ナショナリズム――なぜ今日、人々は「敵」を見つけ出すことに熱心なのだろう。誰が「敵」であり、「友」なのであろうか
No.3193 ・ 2015年02月07日
■「チョンコを殺せ!」「シナ人を虐殺するぞ」と叫ぶ人々が日章旗を掲げ、街を練り歩く。ヘイトスピーチの風景である。剥き出しの敵意は路上だけにあるのではない。インターネットに接続すれば、「在日」をはじめ朝鮮人、韓国人や中国人に対する敵意に満ちた言葉が溢れ、それを批判する書き込みをすれば、「反日」「国賊」といった言葉が即座に返ってくる。街の本屋では、外国や異民族への侮蔑や敵意を煽るだけの出版物に埋め尽くされたコーナーも増えている。政治の世界でも、海外メディアからは現政権の「右傾化」や歴史修正主義が指摘されて久しい。ヘイトスピーチデモを主催してきた団体関係者と密接な関係を指摘される人物が複数入閣し、総理大臣のFBにはヘイトスピーチと同等の書き込みが削除されずに並んでいる。
こうした現象は韓国や中国でも広がっている。2012年、尖閣諸島をめぐって中国で起きた抗日デモの一部は暴徒化し、日本企業や商店が「愛国無罪」と叫ぶ群衆に破壊された。韓国でも度々、反日デモが生じ「Kill Jap」と書かれたプラカードが林立し、日の丸が焼かれている。格差が広がる中国や韓国のweb上も他民族を侮蔑し敵視する言葉が溢れている。国際政治に目を転じればアジアでは、安全保障と資源問題、歴史問題が複雑に絡み合い軍事的緊張が高まっている。偶発的な衝突が戦争を惹起した事例は枚挙に暇がなく、状況を制御できる保証はない。経済危機で社会保障の後退する欧州でも、移民排斥を掲げる政党が躍進を続け、対米同時多発テロ以降はイスラム教徒へ向けられる敵意は加速している。世界中でグローバル経済に「役に立たない」人間を排除し続けても、まだ世界は別な方法で排斥される人間を求めてやまないかのようである。 「被害を受けそうだ」「被害を受けた」と感じる人々が増えれば、脅威の源となる「敵」を発見し(あるいは作り出し)、「追い出せ」「殺せ」と叫ぶ過激な言葉にすら共感が広がるだろう。「敵」を排斥する空気が広がれば、排斥に同調しない人々も「敵」とみなされていくだろう。ヘイトスピーチで「殺せ」と連呼される言葉の刃は、民族的なマイノリティのみならず、同調しない人々全体にも向けられている。それは「万人が万人に対して狼」になる状態をもたらしかねない。こうした事態を回避すべく、人々は主権、自由主義、民主主義など様々な仕組みを産み出してきた。どの民族や宗教であれ、何らかの属性に基づく追放や殺人を煽動する行為を封じてきた。このような仕組みを壊しかねないにもかかわらず、なぜ今日、人々は「敵」を見つけ出すことに熱心なのだろう。誰が「敵」であり、「友」なのであろうか。何を基準に人間を「われわれ=友」と「彼ら=敵」に分けられるのだろうか。 前世紀に「われわれ=友」の単位として最も影響力を発揮してきたのは国民という集団であり、ナショナリズムがそれを支えてきた。従来のナショナリズムはマジョリティの民族を中核に国民共同体を作り上げ、国家という統治機構と一致させ、国民国家を形成する思想であった。 これに対して敵を求めてやまない現代のナショナリズムは、次のような特徴が指摘できる。まず国家(state)の建設ではなく、領土に棲む人々の範囲に関心が集中しており、「仲間になれ」ではなく「出ていけ」という排外主義が強く、国民を縮小させるベクトルを持つ。次にマジョリティの「被害者意識」を基礎に、害をもたらす「敵」の排斥が主張される。民族的・宗教的なマイノリティ集団が名指され排斥される傾向が強いが、「敵」のリストは多岐にわたり流動的である(日本の排外主義運動では、「在日」のみならずアイヌ民族や琉球民族、さらに生活保護受給者や被災者まで「敵」は広がっている)。第三に「敵」に対する呵責なき姿勢の一方で、「友」であるはずの同国民を救うことには冷淡である。福祉受給者やホームレスは自己責任論の下で切り捨てられるか、「福祉をくいものにする」「敵」とみなされる(生活保護受給者バッシングとヘイトスピーチは同時代的な現象と言えよう)。 このような特徴は、従来のナショナリズムに慣れ親しんできた人々の目には「奇妙」に映る。この「奇妙な」ナショナリズムは、いつ、なぜ、どのように生まれてきたのであろうか。 冒頭に書いたヘイトスピーチに対しては、日本では基本的人権や自由、民主主義を守るための行動が、デモに直接対峙するカウンター活動をはじめ、多種多様な形で、現在進行形でなされている。現実の展開に対して「遅ればせ」であることを認めつつも、この「奇妙な」ナショナリズムを育てる土壌を解き明かすためには、インターネットや書籍、社会運動、政党、政策、国際関係などの複数のレベルからの分析と、現代のナショナリズムに対峙する思想や制度の検討が必要になるであろう。多様な人々がいかに共存できるか、その議論を支える言葉の質が劣化していく時代に、そして即効性がなく経済的利益にならない言葉が打ち捨てられていく時代に、共存のための言葉と知を紡ぎ出せるか。言葉の価値が今ほど問われている時代も稀有なのかもしれない。 (駒澤大学) |
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