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評者◆清都正明(東京堂書店神田神保町店)
文学と死とことばと
謎の男トマ 一九四一年初版
モーリス・ブランショ著、門間広明訳
No.3192 ・ 2015年01月31日




■文学表現の可能性ないし不可能性の探求を通じて、文学が文学そのものを問題化する、言うなれば自己批評的文学が20世紀より盛んに生み出されてきたと仮定してみる。カフカはその壮絶な孤独を彷徨いながら、世界の喪失・この世の外側を描き、マラルメは18世紀以来の散文的要素を詩から取り除いて純粋な言語表現を希求、ビュトールが二人称小説「心変わり」を創造することで、作者と作中人物にとどまっていた作品の空間破壊を模索する。いずれも読み手/書き手の関係性の再定義と純粋なテクストの出現をもたらし、近代的「私」という主体のままでは辿り着くことのできない文学的彼方への到達を示唆するものであったと思う。
 そして、「顔の無い作家」「不在の作家」として、死の経験・無為・忘却といった語り得ないものを主題にした作品で、現代思想・文学の最前衛に位置付けられるモーリス・ブランショ。後続する思想や作品に多大な影響を残した彼の最初の小説にして出世作『謎の男トマ』初版が、昨年12月、月曜社から「叢書・エクリチュールの冒険」の新刊として顕現した。
 「どんな作品にも無数の異文がありうる」と序文にもある通り、本作は1941年に刊行された後、大幅な削除を経て(約4分の3程度の分量か?)、新版が1950年に刊行される(この新版に関しては、書肆心水より「ブランショ小説選」の中で邦訳を読むことが可能)。訳者・門間広明氏の解説によると、「トマ」という作品にはある「中心」があり、それは新版でも維持されている。むしろ新版での削除は、この「中心点」をより際立たせるための作業であることが示唆されている。長編小説(ロマン)の形態から、極限まで作品を切り詰めた批評的物語(レシ)への移行を物語るものだが、今回の旧版刊行は、新版との異同を読み比べながらブランショが追究した「エクリチュール」の概念と再び対話してみる好機であろうし、没後十数年を経てもなお、ブランショに関する評論が刊行されている現在、『文学空間』『来るべき書物』などで言及される、「書くこと」、そしてそれに付随する「本質的孤独」、「死の不可能性」などの未だ汲みつくされえないテーマが世界に及ぼした衝撃を記録する一冊でもあるだろう。
 「トマ」。それ自身を死と沈黙と時間の中を彷徨する哲学小説と呼ぶのが正しいかどうか自信はないが、僭越ながら私自身は旧版・新版「トマ」を読んだ際、冒頭の海に入っていくシーンから編み込まれていく、この不在の作家が目指したテクストの運動そのものに目が眩む思いがする。生と死の対話。しかし光と闇のような対照を超え、何物にも回収されない無へ。読者は深く小説内部へと沈潜していき、思考は未だ見ぬものの前で沈黙を余儀なくされる。書く・読むという行為の中で世界を作品へと組織する営みが解体され、「無為」に浸るしかない創造物が「トマ」なのだとして、それを読むこと自体「外の体験」とは呼べないか。そして今回の復刻された「トマ」では、地下の闇に降りていくシーンと、アンヌ死後のトマ独白のシーンに絶対的な夜、自分をもうひとつの生存へと呼び寄せるような、死者の声が鳴り響くとりわけ音楽的イメージの豊饒を新版より増して感じることができた。「書かれたことば」そのものの究極性が主題であろうこの小説の問題提起について、今後も考えていきたい。
 「叢書・エクリチュールの冒険」第1回配本は、ブランショの『書物の不在』から始まった。混乱期における「ことば」への関心をいま一度問う本叢書の姿は、凛々しく書店の棚で輝いている。







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