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評者◆秋竜山
一口羊かん的な本、の巻
No.3188 ・ 2015年01月01日




■宇佐美文理『中国絵画入門』(岩波新書、本体八四〇円)では、
 〈絵画の基本的な要素は、「形」だが、中国絵画の場合、さらに「気」という要素が加わる。気とは何か? そもそも形とは何か?〉(コピーより)
 本書を読みながら、第1章~第10章まで、各章の項目が、ちょうど一口羊かんのようで甘党の私にはたまらない。短かい文章でわかりやすく書かれてある。まさに一口羊かん的文章と、そして味ともいうべきか。
 〈精神性、とは何か。絵画は、単に「形」が画面にあるだけなので、何か「心にうったえかけるもの」が文学のように直接的に表現されているわけではない。もちろん、「美しいなあ」か「すばらしいなあ」というようなかたちで我々の心にインパクトを与えるものはあるだろう。ただここでは、そういうものを精神性とは呼ばない。あえて言うなら、絵画がまるで言葉によって語りかけ、それに絵を見ている人間がこたえているようなもの、それを精神性と呼ぶ。もちろんそれは、日本語とか中国語とか特定の言葉ではない。言葉にならない言葉によって、である〉(本書より)
 言葉にならない言葉とは、お互いに見つめあいながら、「うん、うん。わかった」と、無言でうなずきあうことか。これは、ちょっとむつかしい。お互いのレベルが一緒ぐらいでなくては言葉もうまれないだろう。一流の絵画が一流の言葉で話しかけてくれても、こっちが二流三流であったら、話しかけられた話の意味もチンプンカンプンだろう。時に専門家が絵の解説などされると、本当にそのような絵なのかわからなくなってしまう場合がある。私は、こう思っていたのにどうやら違うらしい、などと思いながらその絵を見なおしたりする。そして、西洋画であったとしても日本語で話しかけてくれるということだ。それが言葉にならない言葉のすばらしさということか。絵を見るということは言葉のやりとりをすると思うと、別のたのしいものになる。
 〈毛松作とされる「猿図」である。この猿は、明らかに「考えている」。中国人が「猿は本当は人間のように考えている」と思っていたわけではない。しかし、我々はこの絵を見ると、猿が考えているように思ってしまう。つまり、人格として見てしまっているのであって、そう見た瞬間に、我々の心と猿の心がつながり、交流する。そして、これは先にもふれたが、中国の絵画を見て、我々が受け取るものはすべてその絵画の持っている気と考えてよい。つまり、ここで絵画と我々の心が交流できるのは、二者の気が交流しているとも言えるのである。〉(本書より)
 絵を見るということは精力的でなければならない。と、いうのも、画廊などへ出かけていくと、何十点何百点の絵が展示してある。それが見るものへのサービスと思っているからだろうか。画家が一年の時間をかけてやっと一作品完成させた絵であっても、一分とか二分で、「ハイ、次」となってしまう。それでもはじめの内は一応はちょっとばかりの時間をかけて見たりはするが、そんなことしていてはらちがあかない。後は歩きながら見ることになる。何秒単位で一作品ということになる。最後は、見もしないで走って出口へ。一口羊かん的鑑賞法ということになるのだろうか。







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