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評者◆秋竜山
足しかない時代、の巻
No.3186 ・ 2014年12月13日




■大島清『歩くとなぜいいか?』(PHP文庫、本体五一四円)。歩くといいに決まっている。なぜ、といわれると、わかっているような、わかっていないような。だから、この本のタイトルがいきてくる。
 〈現代人は意外に歩いていない。歩いていると思っている人でも一日七〇〇〇歩くらいしか歩いていない。極端な例では一日数百歩しか歩いていなかったという人さえいる。〉(本書より)
 私はいつもポケットに歩数計を持っている。大体、五〇〇〇歩前後で、かなり歩いたと思う。ところが、五〇〇〇歩ぽっちでは、歩いたことにならないと本書ではいっているのである。七〇〇〇歩くらいでも満足できない歩きだという。そういうものなのか。
 〈しかし江戸時代の社長である御店の主人でも、一日一万歩は歩いていた。江戸庶民は平均すると一日三万歩は歩いていたそうだ。これは明治になっても変わらず、明治から大正にかけてのサラリーマンは一日平均で三万歩は歩いていた。一歩平均を五〇センチとすると、一日十五キロは歩いていた計算だ。〉(本書より)
 昔の人はよく歩いた。足も短かった。それは関係ないだろうが、足しかない時代だった。歩く以外に方法がなかったからだ。足があったから歩いたのとはちょっと違う。クルマがなかったからだ。と、いうことは、今、こつぜんと世の中からクルマが消えてしまったら、どーなるか。昔にもどってしまうということである。昔は遠くになりにけりであるが、私の中学生の頃、今のようなクルマの時代ではなかった。友達仲間と、小づかい稼ぎにゴルフ場のキャディのアルバイトをやった。夜中の二時に友達とさそいあって、ゴルフ場まで朝の七時に到着するように近道の旧道を五時間近くも走り通しであった。走らなければまにあわないというより、走るということが当たり前であった。一人通るのがやっとのほどの昔からの、細いけもの道のようでもあった。けものたちは自分たちのけもの道を通る時、歩くことなどはしなかっただろう。走って通りぬけたはずである。誰に聞いても足をつかわなくては駄目だという。
 〈あるお医者さんの調査では、課長・係長クラスで一日平均七〇〇〇歩、部長クラスで平均五〇〇〇歩、車つきの重役に至ってはわずか三〇〇〇歩しか歩いていないという結果が出ている。〉(本書より)
 と、いうことは、私は歩数計によると五〇〇〇歩前後であるから、部長クラスの生活をしているということか。うれしいような、うれしくないような。重役は三〇〇〇歩ぐらいだというから、それにあわせてみたらどーだろうか。重役クラスの毎日も悪くないようでもある。それ以上の生活ということになると社長ぐらいか。家の中でゴロゴロしながら一日中読みたい本など読んでいる時間は、まったく足をつかっていないということになる。ぜいたくな不健康な生活ということになるだろう。
 〈ギリシャの哲学者アリストテレスは、散歩をしながら弟子たちに講義し、散歩しながら議論もした。(略)歩くことは本能に根ざした快感であり、快感に包まれるとき脳は活発に動いているのだ。〉(本書より)
 家の中で足をつかうが、歩くとはいわない。ウロウロしているというのだそうだ。ウロついているということは、なぜいけないのか。







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