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評者◆第3弾 くすみ書房(札幌)・久住邦晴(上)
ここまでして本屋を続けるのは未来をつくる「子どもたち」のため ~超有名店がなぜ閉店危機に追い込まれたのか~ 二次卸、教科書、自社ビル~絶頂期の昭和時代
No.3185 ・ 2014年12月06日




■「なぜだ!? 売れない文庫フェア」や「本屋のオヤジのおせっかい 中学生はこれを読めフェア」などで話題を集めた、札幌市西区琴似の書店・くすみ書房。同店は2009年の札幌市厚別区大谷地への移転後、13年に閉店の危機を迎えた。今年に入ってようやくその危機から脱したものの、経営環境はいまだ厳しいという。超有名店・くすみ書房を経営難に陥れたのは何だったのか。さらに危機的状況をどのように脱し、今後をどう考えているのか、くすみ書房の生い立ちから今後までを2回に分けてレポートする。

 くすみ書房(社名は久住書房)は1946(昭和21)年、現在社長を務める久住邦晴氏の実父が札幌市西区琴似で創業した書店である。当初は地元の琴似小学校に紙を納品するのが主な仕事で、09年まで琴似にあった店舗のすぐ近くに間口一間の小さな店舗を構えた。邦晴氏の実父は代々続いた〝紙屋〟ではなく、戦後に務めていた北海道庁を退職してこの事業を始めた。
 創業の翌年から長男、その翌々年には次男、さらにその2年後には三男の邦晴氏と続けて男3兄弟が生まれた。それと並行して、書籍・雑誌や文具の取り扱いも始めて商売を拡大。小さかった店舗も間口が三間、奥行きも倍と少しずつ拡がっていった。会社化する56(昭和31)年までの10年の間の出来事だ。「記憶に残るのが、当時は駅止めだった書籍や雑誌をそりに乗って父と取りにいったことです。おそらく4、5歳くらいでしたか。小学校に上がる前から雑誌の付録合わせを手伝っていました。それが原風景として残っていますね」(邦晴氏)。
 60(昭和35)年頃には木造モルタル2階建ての店舗を建造した。ワンフロア30~40坪で1階は店舗として、2階はピアノ教室やダンス教室など貸しフロアとして利用していた。父は住み込みの従業員2人と配達に行き、母は店番をする。典型的な戦後の昭和の本屋さんであった。
 時代は高度経済成長期。平凡社に代表される百科事典ブームが到来。百科事典で蔵が建つとも言われた頃、実父は蔵を建てる代わりに店舗周辺の土地を購入した。

■二次卸会社を設立

 67(昭和42)年頃から事業を多角化させる。取引先から北海道で書籍・雑誌の二次卸をしないかと持ちかけられたのだ。取次から仕入れて、北海道地区の他の小売店に卸すという商売。実父はひさし書籍販売を立ち上げ、雑貨店や薬局などにスタンドを設置して、週刊誌や女性誌などを販売してもらった。北海道内での二次卸の商いはこの頃から始まったようだ。
 面白いように雑誌が売れた。販路の拡大とともに、旭川や帯広、釧路などに営業所を増やしていった。7~8年後には全道1位の売上を誇る二次卸に成長していた。
 「昭和40年代はひさし書籍販売を一気に伸ばして、店舗も堅実な売上だったと思います。店舗の斜め向かいの土地を買い増しして、ビルを建てる計画もこの頃に始まりました。大谷地に移転する前に入っていたビルです」。くすみ書房は絶頂期を迎えていた。
 ビルが完成したのは75(昭和50)年。邦晴氏がちょうど東京の大学を卒業する頃だった。父から「すぐに戻ってこい」と連絡を受け、卒業試験後すぐ、札幌に帰った。3人の息子にはすでに仕事が用意されていた。長男はひさし書籍販売、次男はくすみ書房の店長、そして三男の邦晴氏はビル管理。各々がそれぞれの職に就き、くすみ書房の第2期の幕開けとなる。
 新ビルの建設から完成の間、日本は不景気の真っただ中にあった。第1次オイルショックである。これが、くすみ書房の新たな船出に水を差した。ビルのテナントがまったく決まらなかったのである。結局、6階建てのビルの内、くすみ書房が2フロアで展開せざるを得なくなった。1階は100坪のスペースで書籍・雑誌を陳列、2階は150坪で文具などを展開した。地下鉄東西線が開通(白石~琴似駅間)する1年前。地下鉄・琴似駅がどこにできるか騒がれてはいたものの、100坪を超えれば大型店という時代に250坪の本屋は無理があった。オープンから数カ月、ビル管理にも慣れてきた邦晴氏は次男の店を手伝うことになった。
 「社員を使ってやっているのですが、仕事が山のように溜まっていました。それで、私が本を、次男が文具をみることになったんです。テナント誘致の課題もありましたが、ビル管理はそれほど忙しくなかった。ただ、私は書店の経験がありませんし、父もまったく教えてくれません。見よう見まねでやってはいましたが、今考えると、よくやらせたなと思います」
 地下鉄・琴似駅(終着駅)が開業した76(昭和51)年。紀伊國屋書店が駅ビルに出店した。邦晴氏の記憶によると、売り場は150~200坪はあったという。くすみ書房も在庫を増やすなどして対抗したものの、売上減を余儀なくされた。
 ただ、紀伊國屋書店の出店以前にくすみ書房の売上はそもそも芳しくなかった。取次や文具問屋の支払いを担当するようになった邦晴氏は支払請求書を見て愕然とする。本や文具の仕入代金どころか家賃すら満足に支払える状況ではなかったからだ。借金が積み重なっていく。書籍の在庫を減らし、文具の売り場も削り、縮小していくが、なかなか軌道に乗らない。

■師匠との出会い

 くすみ書房のオープンから2、3年が経ったある日、邦晴氏に運命的な出会いが訪れる。邦晴氏よりも7歳年上の〝河地(かわち)さん〟という男性がくすみ書房にやってきた。「本が好きで本屋を開業するために修業をしたい。タダでもいいから働かせてほしい」。
 彼を雇い、児童書を担当してもらうと、児童書の売上が一気に倍になった。売り場をのぞいてみると、以前とは様変わりしていた。平台の随所では様々なフェアを展開、柱にも手作りのポスターが貼られていた。河地さんには「本を売るにはお客様にアピールしていかなくてはいけない。取次から送られてきたものを並べるだけではダメ。そこから仕事が始まる。どうコーナーをつくっていくか、そういうことを考えていかなければ。そのためには本を読まなくてはいけない。例えば絵本を知るためには、まず1000冊の絵本を読みなさい」と教えられた。
 「1000冊読んだが、よく分からなかった。だが、本がだいぶ身近になりました。本を知って工夫して客に伝える。そのために楽しい売り場をつくらなくてはいけない。そういう本屋の基本を一から教えてくれた河地さんが私の原点なんです」
 河地さんはくすみ書房で2年の修行後、当時の同店より3キロほど離れたところで北斗文庫という書店をオープンする(現在は閉店)。
 80(昭和55)年、店売の売上が厳しいため、外商に力を入れることにした。元々、実父の時代には企業のほか、個人配達も含め1000件もの外商をこなしていたが、3兄弟の時代には、近隣の企業を残して外商を縮小していた。

■教科書の販売へ

 しかし、当時は第2次ベビーブームの影響で高校がどんどん増えていた。札幌では富貴堂や丸善など3書店が教科書を扱っていたが、高校の拡大に合わせて教科書供給所も取り扱い書店を増やそうと考えていた。そんな折、くすみ書房にも新規の高校の教科書を扱わないかと声がかかった。西区の教科書販売を任され、その後も高校の拡大とともに売上を伸ばしていった。今でも1億円の売上があるという教科書販売が、店売で苦戦するくすみ書房の経営を陰ながら支えていくのであった。
 84(昭和59)年、邦晴氏は次男から店長職を受け継いだ。これを機に売り場を大改装。2階の売り場を貸しフロアにし、1階に書籍・雑誌(70坪)、文具(30坪)を集中させ、一気に売り場を縮小した。1階には長いカウンターと椅子を設けて、売り場を仕切った。カウンターの客側には雑誌や実用書、コミックなど足の早い商品を置いた。カウンターの内側には高い棚を設置して、図書館のように書籍を並べた。書籍を座って読んで選ぶことができる書店、「座れる本屋」を始めた。
 同時に、琴似在住の芸術家に頼んで猫を題材とした彫刻や焼き物などを並べて販売し、「猫に襲われた本屋」とうたって新聞の折り込みチラシで宣伝した。西区在住や西区の会社に務める客に本を提供してもらって販売する「西区の本棚」も設置した。思いつくアイデアを実行に移した。それが地元で話題となり、
新聞などにも取り上げられるようになった。
 2階のテナントも決まり、教科書販売も軌道に乗り始め、日々の経営は何とか落ち着いたようにみえた。しかし、この10年近くの間に積み重なった取次や文具問屋、ビルの家賃などの借金も合わせるとくすみ書房の負債は3億円をゆうに超えていた。
 「結局、この借金が今も経営を苦しめている原因です。ビルはひさし書籍販売が所有するものではありましたが、ひさしも地元のコンビニエンスストアとの取引を大手取次の子会社に持っていかれたり、コンビニの台頭で取引していた雑貨店などが閉店したり、売上はどんどん落ちていきました。最終的には二次卸を手放すことになるのですが、それは少し先の話です」
 ただ、大きな借金は抱えていたものの、まだまだ時代は鷹揚だった。これ以上、負債を増やさないことを条件に取次会社は支払いを待ち、通常取引を維持してくれた。80年代、そして90年代は書籍・雑誌の売上は微増で推移した。教科書も含めた外商も教科書取り扱い書店の撤退などもあって伸長した。唯一、文具の売上が下がっただけだったが、負債を増やさずに何とか経営は維持してきた。

■路線延長で売上が激減

 しかし、99年(平成11)年、大きな転期を迎える。地下鉄・東西線の終着駅が琴似より2駅先の宮の沢にまで延長された。これに伴い、終着駅だった琴似駅の利便性が失われ、駅周辺の集客力が大幅にダウンした。人の流れの変化は商売に大きな影響を与える。この延長によって、ダイエー琴似店の売上は激減したといわれ、紀伊國屋書店も2000(平成12)年に撤退した。
 もちろん、くすみ書房にも大きな影響を与えた。あれほど駅周辺を歩いていた人が嘘のようにいなくなり、店売の月商が前年比2割減という月が続いた。いろんな手を打ったものの、何をやっても売上に跳ね返ってこなかった。八方ふさがりの状況が4年続いた。
 負債さえ増やさなければと親身になってくれた取次への支払いがこの頃から滞りはじめた。03(平成15)年、取次がこれ以上負債を増やしてもらっては困ると事態の改善を求めてきた。時を同じくして02(平成14)年に白血病を発症した邦晴氏の長男が03年7月に他界した。
 会社の経営悪化、長男の大病と他界――。息子の葬式の香典すら資金繰りにあてがわざるを得ない状況だった。身も心も文字通りぼろぼろになっていた。いやそれすら通り越して、「心の中は空白になっていた」という。7月半ば、「もうやめよう」と思った。従業員を集めて、04(平成16)年の新学期終了後には店を閉めると頭を下げた。
(次週につづく)







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